歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第210回
―帖佐から義弘が移築―

昨日の掲載記事ですが、連休中だったため、同紙の更新が本日にずれ込んでしまいました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は私の郷里にある文化財史跡の由緒について書きました。
郷里ではけっこうよく知られた門ですが、その由来が関ヶ原合戦の余波による肥薩国境の緊張という当時の情勢がもたらした産物だということはあまり知られていなかったと思います。
記事には帖佐の大手門跡に遺る礎石のホゾ穴とその案内の標柱の写真を載せられなかったので、ここに載せておきます。
ほぞ穴

標柱

何より島津義弘が出水城を居城にするつもりだったことはほとんど知られていないと思います。この点はぜひ紹介したかったポイントです。

今回、義弘の出水居城化に関連して、おそらく『旧記雑録後編三』だったと思うのですが、出水市の旧大野原(現・五万石町)を義弘が開拓するという史料を見た覚えがあって一生懸命探したのですが、ついに見つけ出せませんでした。私の備忘録にも記載がなかったです(かつてPCがクラッシュしたとき、データが一部失われたので、そのとき消失したか)。
この点を書けなかったことが心残りです。

関ヶ原戦直後、わが郷里の国境に加藤清正・黒田如水・立花宗茂といった著名な戦国武将率いる軍勢が押し寄せてきたというのも何となくロマンがあります。
しかし、一時、秀吉の蔵入地となり、対馬宗氏や寺沢広高の領地にもなった関係で百姓への乱取りが行われ、一方、島津方も小西行長支援のために加藤清正の佐敷城を攻めたときなど、地元の百姓を略奪してきております。国境ゆえの悲劇ですが、お互いひどいことをやっています(藤木久志氏の名著『雑兵たちの戦場』のなかで、当地の乱取りがメインの史料になっているのも皮肉です)。
考えてみれば、私などもそうした乱取りに遭った百姓の子孫かもしれないのですが……。

次回は先日の鹿児島市での講演でも触れた有名な石像「ジメサア」を再考してみたいと思っています。
つい先日(5日)の命日に恒例のお色直しが行われたようですが。

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【2011/10/11 22:07】 | さつま人国誌
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ばんない
こんばんは。

義弘はこの後結局加治木城に転居しますが、家久(忠恒)があちこちに築城を計画した件といい、義久が国分城を造った件といい、あの時期にいろいろ築城や転居をした理由は何だったのか、考えると興味深いです。

そういえば国分城の「朱門」も一時期別の場所に移築されていたのを割と最近?になってから今の場所に戻したといいますが、実はこの門が元々国分城の門だったかどうかもはっきりしないらしいと言う話も聞いたことが…(ネットで検索した話で史料的な裏付けは取ってません)。
仙厳園の錫門も朱色の門ですし、妙に気になります。

義久もどこぞ国境辺りに引っ越す話もあったようですね。もっとも時期は秀吉の九州御動座で負けた後辺りのようですが。参考史料は「新納忠元勲功記」です。

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2011/10/19(Wed) 00:02 |   |  #[ 編集]
こんばんは。

義弘はこの後結局加治木城に転居しますが、家久(忠恒)があちこちに築城を計画した件といい、義久が国分城を造った件といい、あの時期にいろいろ築城や転居をした理由は何だったのか、考えると興味深いです。

そういえば国分城の「朱門」も一時期別の場所に移築されていたのを割と最近?になってから今の場所に戻したといいますが、実はこの門が元々国分城の門だったかどうかもはっきりしないらしいと言う話も聞いたことが…(ネットで検索した話で史料的な裏付けは取ってません)。
仙厳園の錫門も朱色の門ですし、妙に気になります。

義久もどこぞ国境辺りに引っ越す話もあったようですね。もっとも時期は秀吉の九州御動座で負けた後辺りのようですが。参考史料は「新納忠元勲功記」です。
2011/10/19(Wed) 00:14 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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