歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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という記事が出ておりました。
ここです。

織田家発祥の地とされる所での発見ですが、そもそも議論の前提に疑問を感じますね。

信長文書で、信長のいちばん若い頃の文書が天文18年(1549)付、熱田の村々に宛てた制札です。信長文書の集大成である、奥野高広氏の労作『増訂織田信長文書の研究』の第1号文書です。
信長16歳のときのものですが、その署名には、

藤原信長

とあります。
信長が自分の家の氏は藤原氏だと認識していたのは明らかですね。
この時点で、すでに平氏云々は的外れではないかと思います。

とはいえ、信長がその後、平氏を名乗ったのは事実です。
現存する信長文書で、その初見は、元亀2年(1571)6月、越前白山別山権現の鰐口(鐘のようなもの)にある刻文です。
これは信長が寄進したものらしく、

信心大施主平信長

とあります。
その後、信長が権大納言・右近衛大将に叙任すると、『公卿補任』には「平氏」で記録されるようになりました。

このことから遡及して、信長が平氏だというわけでしょうが、どうも違和感がありますね。
藤原名乗りはどうなるのでしょうか?

信長が平氏を称したのは、どうやら足利義昭を奉じてからのことです(もっと遡る可能性もあるかも知れませんが)。
そうだとすれば、信長の平氏名乗りは清和源氏の棟梁である義昭との差異、差別化戦略の一種だと考えられます。義昭と同じ清和源氏を名乗れば、否が応でも義昭の下位に位置づけられてしまうからです。
その愚を避けるために、平氏を称したと考えたほうがいいと思います。要は、義昭との関係を上下の秩序に編成されずに一定の距離を置くため、非源氏であれば何でもよかっただけではないでしょうか。

勝幡織田家クラスの国人にとって、藤原氏でも平氏でも氏はいくらでも変更可能だったわけです。その程度のことで、あえてこだわる必要もないと思うのですが……。

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【2011/11/02 10:22】 | 信長
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そもそも
としちゃん25歳
先日は新著御恵贈賜りありがとうございました。
遅くなっておりますが、拝読の後、改めて御礼の
お便りをさせていただきたいと思いますので
お許しください。

ところでこの記事、今朝の朝刊で読んだのですが、
「喪親真阿聖霊」の読み方は、「喪親」である
「真阿(弥)」の「聖霊」で、それを「孝子」が
弔った、とする方が自然なような…。

いかがなものでしょうか。

喪親
桐野
としちゃん25歳さん

私が存じ上げている方かと思いますが、25歳ではなかったような(笑)。

たしかに「喪親」以下が戒名としたほうが通りがいいですね。「喪・親真」とは何となくすわりが悪い気がします。

墓塔の刻銘のしかたはまったく門外漢なので、わかりません。宗派によっても違いがありそうですし。
喪親~は浄土真宗か時宗系ですかね?
その方面の専門家からのコメントが待たれます。

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コメント
この記事へのコメント
そもそも
先日は新著御恵贈賜りありがとうございました。
遅くなっておりますが、拝読の後、改めて御礼の
お便りをさせていただきたいと思いますので
お許しください。

ところでこの記事、今朝の朝刊で読んだのですが、
「喪親真阿聖霊」の読み方は、「喪親」である
「真阿(弥)」の「聖霊」で、それを「孝子」が
弔った、とする方が自然なような…。

いかがなものでしょうか。
2011/11/02(Wed) 20:24 | URL  | としちゃん25歳 #mQop/nM.[ 編集]
喪親
としちゃん25歳さん

私が存じ上げている方かと思いますが、25歳ではなかったような(笑)。

たしかに「喪親」以下が戒名としたほうが通りがいいですね。「喪・親真」とは何となくすわりが悪い気がします。

墓塔の刻銘のしかたはまったく門外漢なので、わかりません。宗派によっても違いがありそうですし。
喪親~は浄土真宗か時宗系ですかね?
その方面の専門家からのコメントが待たれます。
2011/11/04(Fri) 15:27 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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