歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
読売新聞に載っていたこの記事

この書状は日付から見て、おそらく「森川文書」で、蘭奢待切り取りの関連史料として『大日本史料』10-21に収録されている。

せっかく貴重な史料なのに、見出しの付け方が扇情的で先入観を招きますな。「所業」って、あまりいいイメージでないことは明らか。

書状にも書かれているように、信長はただ蘭奢待を見たいと申し入れただけじゃないの。しかも、書状中に「叡慮別儀なく候」とある。つまり、正親町天皇が切り取りOKだと言っているのです。
それのどこが「所業」になるのかな? もう少し勉強してほしいな。蘭奢待切り取りの一件、やはり先入観が強いね。

記事中にある書状の差出人「実澄」を東大寺の僧侶と推定しているが、これは明らかに公家の三条西実澄(権大納言)だと思うよ。実澄は信長の蘭奢待切り取りがあった天正2年(1574)3月から10カ月後の12月に実枝(さねき)に改名している。こちらの名前のほうが有名。したがって、この書状の年次は天正2年だとわかる。

宛所は東大寺の西室院。史料写真にある「小童 千世保丸」というのが実澄の子どもで、この時期、西室院に入部していた。尚々書冒頭にある「別当幼少」を指している。これは東大寺の別当が当時空席だったけれど、蘭奢待切り取りという一大イベントを執りおこなうためにはやはり東大寺の代表である別当が必要なので、便宜的に千世保丸が別当に補任されたことを示している。

なお、尚々書にある「飛鳥羽林」は飛鳥井雅敦ですね。天正2年時点で28歳。正四位下で近衛左中将。「羽林」は近衛府の唐名なので、近衛左中将はピタリである。

すでに『大日本史料』に収録されている史料だけど、原文書の所有者が名乗り出たということのようです。

余計なことかもしれませんが、記事末尾に鳩居堂の屋上から、信長が最期を遂げた本能寺の境内が見えたと書いてあるけど、寺町から見えるのは現・本能寺ですよね。しかも、信長が自刃した本能寺は跡だけで境内はないし。ちょっと寒いかも。

信長の蘭奢待切り取りの一件で、現在、もっともすぐれた論文は、

金子拓「織田信長の東大寺正倉院開封と朝廷」 『国史学』196号 2008年

だと思います。関心のある方は参照して下さい。

ちなみに、拙著『織田信長』(新人物往来社)でも、蘭奢待一件を少し詳しく解説しています。ここです。最後は宣伝でした(笑)。

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【2011/12/09 23:21】 | 信長
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ありがとうございました
金子拓
桐野様
このたびは拙稿をご紹介いただきありがとうございました。いつもお世話になっています(笑)。ところで、記事のこと初めて知り、驚きました。あの文書の原本が見つかったということはもちろん驚きなのですが、発給者が僧侶ですか…(苦笑)。自分の論文はともかく、『大日本史料』という史料集の存在をもっともっと宣伝しなければならないですね。まだまだそのあたり力不足です。ついでながら、新聞記者さんにも、もっと勉強してほしいと思います。

原文書
桐野
金子拓さん

コメント有難うございます。
「森川文書」はおそらく所蔵者の名前ですよね。記事によると、どうも所蔵者が移っているようですね。
原文書が不明だったとは知りませんでした。ぜひ金子さんのほうで撮影して下さいませ。鳩居堂は有名な老舗だけに、ほかにも古文書所有していそうですね。

そうそう、新刊刊行おめでとうございます。



のの
金子先生の論文を以前から拝見したいの思ってますが機会がなくて・・。
一つ不明な点があるのですが「天正二年~」に櫃の鍵があかなくて壊してまた修理した、という記事がありますが、これは多聞城に運ばれてからのことなんでしょうか。それとも東大寺直封倉での出来事なんでしょうか。
前者だと信長の行動になりますが後者だとまた別の第三者の行動ということになります。このあたりどうなんでしょうか・・。

金子先生の信長公記についての調査結果、再来年には出版予定でしょうか、とても楽しみにしております。


金子拓
ののさん、こんばんは。
桐野さんのお許しを得て、この場をお借りしてご質問にお答えします。
信長は多聞山城で蘭奢待が運ばれてくるのを待っていたことになりますから、それを運び出すため正倉院を開封しようとしたら…ということなのではないでしょうか。したがって鍵のことは東大寺側の僧侶たちの行動だと思っています。
信長記についての調査結果とのことですが、一端は一昨年出した拙著『織田信長という歴史』に書いております。桐野さんも含めた共同研究メンバーによる論集は、現在鋭意編集中です。近いうちに刊行することを目指しています。またそのときはよろしくお願いします。


のの
金子先生、お忙しい中お返事ありがとうございました。鍵の件ですが、信長から最初に話があった時点で鍵を探しておくのが普通かなとも思い四日後にまだ鍵が見つからなかったのか朝廷が管理していたのが届かなかったのか、少しのんびりしているな、とも感じまして。推測がすぎるかもしれませんが東大寺側にはそこまで性急に信長が要求してくるとは思ってなかったようにも感じられて少し気になっているやりとりだったのですよね。
いったん断って安心してしまっていたといいますか。
テレビ出演を拝見した後にお返事に気づいて少々びっくりでした。
論集を鋭意編集中とのこと、楽しみにしております。

桐野先生、場所をお借りしてしました、どうもありがとうございました。

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コメント
この記事へのコメント
ありがとうございました
桐野様
このたびは拙稿をご紹介いただきありがとうございました。いつもお世話になっています(笑)。ところで、記事のこと初めて知り、驚きました。あの文書の原本が見つかったということはもちろん驚きなのですが、発給者が僧侶ですか…(苦笑)。自分の論文はともかく、『大日本史料』という史料集の存在をもっともっと宣伝しなければならないですね。まだまだそのあたり力不足です。ついでながら、新聞記者さんにも、もっと勉強してほしいと思います。
2011/12/10(Sat) 20:49 | URL  | 金子拓 #-[ 編集]
原文書
金子拓さん

コメント有難うございます。
「森川文書」はおそらく所蔵者の名前ですよね。記事によると、どうも所蔵者が移っているようですね。
原文書が不明だったとは知りませんでした。ぜひ金子さんのほうで撮影して下さいませ。鳩居堂は有名な老舗だけに、ほかにも古文書所有していそうですね。

そうそう、新刊刊行おめでとうございます。
2011/12/11(Sun) 00:06 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
金子先生の論文を以前から拝見したいの思ってますが機会がなくて・・。
一つ不明な点があるのですが「天正二年~」に櫃の鍵があかなくて壊してまた修理した、という記事がありますが、これは多聞城に運ばれてからのことなんでしょうか。それとも東大寺直封倉での出来事なんでしょうか。
前者だと信長の行動になりますが後者だとまた別の第三者の行動ということになります。このあたりどうなんでしょうか・・。

金子先生の信長公記についての調査結果、再来年には出版予定でしょうか、とても楽しみにしております。
2011/12/11(Sun) 18:49 | URL  | のの #-[ 編集]
ののさん、こんばんは。
桐野さんのお許しを得て、この場をお借りしてご質問にお答えします。
信長は多聞山城で蘭奢待が運ばれてくるのを待っていたことになりますから、それを運び出すため正倉院を開封しようとしたら…ということなのではないでしょうか。したがって鍵のことは東大寺側の僧侶たちの行動だと思っています。
信長記についての調査結果とのことですが、一端は一昨年出した拙著『織田信長という歴史』に書いております。桐野さんも含めた共同研究メンバーによる論集は、現在鋭意編集中です。近いうちに刊行することを目指しています。またそのときはよろしくお願いします。
2011/12/12(Mon) 22:49 | URL  | 金子拓 #-[ 編集]
金子先生、お忙しい中お返事ありがとうございました。鍵の件ですが、信長から最初に話があった時点で鍵を探しておくのが普通かなとも思い四日後にまだ鍵が見つからなかったのか朝廷が管理していたのが届かなかったのか、少しのんびりしているな、とも感じまして。推測がすぎるかもしれませんが東大寺側にはそこまで性急に信長が要求してくるとは思ってなかったようにも感じられて少し気になっているやりとりだったのですよね。
いったん断って安心してしまっていたといいますか。
テレビ出演を拝見した後にお返事に気づいて少々びっくりでした。
論集を鋭意編集中とのこと、楽しみにしております。

桐野先生、場所をお借りしてしました、どうもありがとうございました。
2011/12/13(Tue) 23:12 | URL  | のの #-[ 編集]
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