歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第219回
―知られざる薩軍戦死者―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は少し趣向を変えて、箱館戦争の一環である宮古湾海戦を取り上げました。同海戦は榎本海軍の回天艦によるなぐり込み=アボルダージュが有名です。TVドラマなどでも取り上げられたことがあり、主役はいつも土方歳三であり、またガトリング砲が登場します。

この海戦がどのようなものであったのか。とくに明治政府軍の一員であった薩摩藩側はどうだったのかという視点から書いてみました。

それというのも、同湾の高台にある本照寺の奥に官軍墓地があり、訪れる人もほとんどいないのですが、そこにある墓石に4名の戒名が刻まれているのがずっと気になっていました。この4名が誰なのか、武士か水夫・軍属か、武士ならば、どの藩の人か興味があったからです。

また、箱館戦争に従軍した薩摩藩兵のこともほとんど知られていません。
箱館攻めの参謀黒田清隆、軍艦春日に乗船していた東郷平八郎、あるいは榎本軍との和平交渉にあたった村橋直衛(サッポロビールの祖)などは知られていますが、一般兵士は知られていないと思います。
従軍していたのは、薩摩藩の身分制でいえば、兵具方(ひょうぐかた)と呼ばれる足軽たちで編成された兵具三番隊です。この一番隊はのちの大警視、川路利良が隊長で、鳥羽伏見の戦いや彰義隊との上野戦争で奮戦しています。三番隊(200名ほどか)は少し後から編成され、箱館に出陣すべく、芸州藩の豊安丸と阿波藩の戊辰丸に分乗していました。

両軍戦死者については、『復古記』の「蝦夷戦記」所収の諸藩史料がいちばん詳しいと思います。そのなかで輸送船の戊辰丸から戦死者3名、行方不明者3名が出ていますが、4名の戒名と数が合いません。
戊辰丸の死傷者はほとんど阿波藩蜂須賀家の人々で、1名だけ英国料理人(マッケンジー)が含まれます。薩摩藩兵はいません。

一方、薩摩藩側の諸隊の戦闘報告を収めた『薩藩出軍戦状』下の兵具三番隊の記録を見ると、豊安丸に乗船していた兵具方三番隊から戦死者1名、負傷者2名が出たことが記載されていました。この記録は「蝦夷戦記」には含まれていません。

よって、この戦死者1名(嶋田市次郎)と戊辰丸の戦死者3名の合わせて4名が墓石に刻まれた戒名に該当するのではないかと推定してみました。

なお、戊辰丸の行方不明者3名が気になりますが、これは戦闘中、海に転落した人たちだと思われます。その後、救出されたか、あるいは外洋に流れ出て遺体が見つからなかったのかなとも思っていますが、戒名4名に含まれている可能性も排除できません。

なお、宮古湾の近くに戦死した新選組の野村利三郎や幕軍無名戦死者の墓がありましたが、先の大津波で流されてしまったかもしれませんね。無事であればよいのですが。

それと、この海戦で甲鉄艦からガトリング砲が発せられたことはよく知られています。
私はそれを史料で確認したことがなく、本当なのだろうかと思っていましたが、ある史料(回天搭乗従軍者の記録)に「ガツテリングガン」で撃たれたと記載されていました。

薩軍戦死者の嶋田市次郎はどのような人なのか、よくわかりません。
有名になった宮古湾海戦ですが、薩摩藩側にも死傷者が出ていたことも記憶してもらえたらと思って、今回書きました。

【追記】
戦死者の嶋田市次郎についてですが、京都の東福寺塔頭即宗院に西郷隆盛が揮毫した戊辰戦争での薩軍戦死者墓碑銘があります。そのなかに嶋田がいないかどうか、過去の写真を見てみたら、ちゃんと記載されていました。
島田市次郎周次
とあり、実名も載っており、少し個人情報が増えました。
なお、兵具三番隊の隊長、恒吉休右衛門も戦死したようですが、これは箱館の戦いでしょうね。

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【2011/12/27 10:27】 | さつま人国誌
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