歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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午後から一応幽霊会員として所属している表題の例会におそらく2年ぶりくらいに参加した。

テーマは「天正前期の阿波と諸勢力」。
報告者はわざわざ伊予国からお見えになった若手研究者の中平景介さん。

織田権力と長宗我部氏、あるいは阿波三好氏について、新史料や新解釈などがあるかなと軽い気持ちで出かけたところ、何と、拙著2点が先行研究として俎上に挙げられていてビックリ。
拙著、とくにPHP新書『だれが信長を殺したのか』は自分では力入れて書いたつもりだったが、スルーされることが多かったから、たとえ批判の対象でも、取り上げてもらったことに感謝、感謝。
阿波国の元亀~天正前半の15年間ほどの情勢変化、諸勢力の動向が史料不足のなかでも、かなりよく整理されていて勉強になった。
とくに阿波守護家の細川真之や三好存保の動向が興味深かった。結論については、なるほどと思ったけれでも、別の疑問が生じているようにも感じた。

私は四国東半の政治状況について、不勉強なせいもあり、これまでほとんど信長サイドからしか見てこなかったが、まず基礎的な作業として、地元の阿波の国情をなるべく一次史料で立ち上げて検討していこうという姿勢がうかがえた報告だった。
それでも、阿波国の中世史料については一次史料の不足は覆いがたい。『元親記』『昔阿波物語』などの軍記物への依存は避けがたいのだろうな。それを突破する方法がなかなか見つからないと感じた。

それにしても、会場の駒澤大学深沢キャンパスは駅から遠い。おかげで体が温まった(笑)。

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【2012/01/14 23:59】 | イベント
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ありがとうございました
中平景介
先日はお忙しい中お運びいただきありがとうございました。
今回の報告の契機の一つは『だれが信長を殺したのか』を読んだことにあります。
管見の限り、それまで信長と阿波との関係にあそこまで論及したものはなく、当時興奮して読み進めた想い出があります。その後、四国政策問題で他の論でも阿波が取り上げられるようになったものの、それぞれ阿波三好氏の位置づけがバラバラで整理がつかず、今回自分で整理を試みたものです。
仰るように、阿波国の一次史料は極めて少なく、今回も軍記物の記述を一次史料で若干裏付けるといったものにならざるをえませんでした。
阿波については全国での悉皆的な調査が行われているわけではありませんので、まだまだ史料は眠っている気がしています。これは今後の課題です。

ご質問いただきました例の信長朱印状について、再確認しましたので、補足を申し上げます。
報告では「本知」と記憶違いしており、失礼いたしました。
「讃岐国之儀、其方任本領之旨申談候、全可有領知候」の文言は、讃岐国内における本領を領知せよ、という意味に解釈しております。
そのため、天正八年頃から織田・長宗我部方への与同が確認できる安富氏を宛所候補者として想定しました。
宛所が安富氏だとすると、香川氏関係者が入手して宛所を切り取ったという行為もありうるかと想像しています。

それから、三好康長と三好式部少輔の関係ですが、あの時は忘れていたのですが、軍記物では式部少輔が徳太郎ともされることを考えると、孫七郎・山城守しか名乗りが確認できない康長と親子関係を想定することも難しいとも捉えております。とはいえ、会場でも申し上げましたように、軍記物が親子と記述していることも無碍にはしがたいという思いです。
親子でなければ、康長の本拠を岩倉城に想定する必要がなくなり、私的には論を進めやすいのですが。

最後に、四国政策転換問題の捉え方を変えた場合のご疑問についてですが、私自身も感じておりました。
この辺りは『元親記』以外に史料がないのが厳しいところです。ただ、五月の国分案(信孝を讃岐、康長を阿波)は、四国政策転換前からの方針ではなく、元親との断交を受けて出てきた案と捉えております。

長々と失礼いたしました。あらためてありがとうございました。

近年忩劇
桐野
中平景介さん

わざわざコメント有難うございます。
先日はお疲れ様でした。
阿波の情勢については、史料が少ないうえに情報が錯綜していて、私の頭のなかが混乱しているのが現状です。
そんななか、年次別にきちんと整理して提示していただき、大変勉強になりました。

それで、三好康長が香宗我部親泰に宛てた副状(史料28)の年次比定ですが、まず康長が康慶と改名した時期は信長に服属した天正3年だと思われます。康長の一字が信長の下の字なので使用を憚ったと思われます。
したがって、同年以降であることは確実と思われます。そのなかでキーワードは「殊更近年就忩劇」かと存じます。そのことを先日、お話しするのを忘れておりました。
「近年忩劇」が何を意味するかですが、まず考えられるとすれば、三好長治の死(天正4年)です。となると、「近年」ですから、それから時間がさほど離れていない時期ということで、桑名洋一さんのお説に説得力がありそうですね。

私は長宗我部氏と関わる事件ととらえて、拙著では岩倉落城ではないかと考えました。同城落城は天正7年12月と考えてよさそうなので、翌8年かなとした次第です。

ほかにも三好存保の勝瑞城から讃岐出奔なども候補になるのかもしれません。

取り急ぎ感じた点のみ。

「近年忩劇」について
中平景介
度々失礼いたします。
「近年忩劇」ですが、三好長治の死から阿波国内はずっと戦乱が継続していますので、そのような状態そのものを表わしているのかな、と考えております。天正6・7年説であれば、天正6年に式部少輔が元親に服属していますので、それに先立つ同年の重清城の攻防あたりが具体的には考えられそうです。
内乱や長宗我部氏の侵攻による周辺の戦乱にまきこまれ「無力之仕立」になっていたのかといまのところ解釈しています。

「阿波の鉄砲~鉄砲からみた阿波史~」
市野澤 永
桐野 様

こんばんわ。

年明けから桐野さんと戦国史で、
ご一緒できて良かったです。
帰り道では、貴重なお話の数々ありがとうございました。

阿波に関する企画展なので、
こちらへ書き込みました↓

徳島城博物館
冬の企画展
「阿波の鉄砲~鉄砲からみた阿波史~」
平成23年11月26日(土曜)~平成24年1月29日(日曜)

講演会「徳島藩鉄砲の社会史」
平成23年12月23日(祝日)13:30~15:00
講師 根津寿夫氏(徳島城博物館学芸員)

講演会「阿波の火縄銃」
平成24年1月14日(土曜)13:30~15:00
講師 坂本憲一氏(阿波市文化財保護審議委員)

徳島城博物館のホームページ
http://www.city.tokushima.tokushima.jp/johaku/

情報御礼
桐野
市野澤さん

先日はお疲れ様でした。

また徳島県の企画についての情報提供有難うございます。
行くのは難しいですが、図録があれば何とかと思います。
取り急ぎ御礼まで。

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コメント
この記事へのコメント
ありがとうございました
先日はお忙しい中お運びいただきありがとうございました。
今回の報告の契機の一つは『だれが信長を殺したのか』を読んだことにあります。
管見の限り、それまで信長と阿波との関係にあそこまで論及したものはなく、当時興奮して読み進めた想い出があります。その後、四国政策問題で他の論でも阿波が取り上げられるようになったものの、それぞれ阿波三好氏の位置づけがバラバラで整理がつかず、今回自分で整理を試みたものです。
仰るように、阿波国の一次史料は極めて少なく、今回も軍記物の記述を一次史料で若干裏付けるといったものにならざるをえませんでした。
阿波については全国での悉皆的な調査が行われているわけではありませんので、まだまだ史料は眠っている気がしています。これは今後の課題です。

ご質問いただきました例の信長朱印状について、再確認しましたので、補足を申し上げます。
報告では「本知」と記憶違いしており、失礼いたしました。
「讃岐国之儀、其方任本領之旨申談候、全可有領知候」の文言は、讃岐国内における本領を領知せよ、という意味に解釈しております。
そのため、天正八年頃から織田・長宗我部方への与同が確認できる安富氏を宛所候補者として想定しました。
宛所が安富氏だとすると、香川氏関係者が入手して宛所を切り取ったという行為もありうるかと想像しています。

それから、三好康長と三好式部少輔の関係ですが、あの時は忘れていたのですが、軍記物では式部少輔が徳太郎ともされることを考えると、孫七郎・山城守しか名乗りが確認できない康長と親子関係を想定することも難しいとも捉えております。とはいえ、会場でも申し上げましたように、軍記物が親子と記述していることも無碍にはしがたいという思いです。
親子でなければ、康長の本拠を岩倉城に想定する必要がなくなり、私的には論を進めやすいのですが。

最後に、四国政策転換問題の捉え方を変えた場合のご疑問についてですが、私自身も感じておりました。
この辺りは『元親記』以外に史料がないのが厳しいところです。ただ、五月の国分案(信孝を讃岐、康長を阿波)は、四国政策転換前からの方針ではなく、元親との断交を受けて出てきた案と捉えております。

長々と失礼いたしました。あらためてありがとうございました。
2012/01/17(Tue) 00:46 | URL  | 中平景介 #6moyDOY6[ 編集]
近年忩劇
中平景介さん

わざわざコメント有難うございます。
先日はお疲れ様でした。
阿波の情勢については、史料が少ないうえに情報が錯綜していて、私の頭のなかが混乱しているのが現状です。
そんななか、年次別にきちんと整理して提示していただき、大変勉強になりました。

それで、三好康長が香宗我部親泰に宛てた副状(史料28)の年次比定ですが、まず康長が康慶と改名した時期は信長に服属した天正3年だと思われます。康長の一字が信長の下の字なので使用を憚ったと思われます。
したがって、同年以降であることは確実と思われます。そのなかでキーワードは「殊更近年就忩劇」かと存じます。そのことを先日、お話しするのを忘れておりました。
「近年忩劇」が何を意味するかですが、まず考えられるとすれば、三好長治の死(天正4年)です。となると、「近年」ですから、それから時間がさほど離れていない時期ということで、桑名洋一さんのお説に説得力がありそうですね。

私は長宗我部氏と関わる事件ととらえて、拙著では岩倉落城ではないかと考えました。同城落城は天正7年12月と考えてよさそうなので、翌8年かなとした次第です。

ほかにも三好存保の勝瑞城から讃岐出奔なども候補になるのかもしれません。

取り急ぎ感じた点のみ。
2012/01/17(Tue) 10:17 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
「近年忩劇」について
度々失礼いたします。
「近年忩劇」ですが、三好長治の死から阿波国内はずっと戦乱が継続していますので、そのような状態そのものを表わしているのかな、と考えております。天正6・7年説であれば、天正6年に式部少輔が元親に服属していますので、それに先立つ同年の重清城の攻防あたりが具体的には考えられそうです。
内乱や長宗我部氏の侵攻による周辺の戦乱にまきこまれ「無力之仕立」になっていたのかといまのところ解釈しています。
2012/01/19(Thu) 23:09 | URL  | 中平景介 #eFktVeRs[ 編集]
「阿波の鉄砲~鉄砲からみた阿波史~」
桐野 様

こんばんわ。

年明けから桐野さんと戦国史で、
ご一緒できて良かったです。
帰り道では、貴重なお話の数々ありがとうございました。

阿波に関する企画展なので、
こちらへ書き込みました↓

徳島城博物館
冬の企画展
「阿波の鉄砲~鉄砲からみた阿波史~」
平成23年11月26日(土曜)~平成24年1月29日(日曜)

講演会「徳島藩鉄砲の社会史」
平成23年12月23日(祝日)13:30~15:00
講師 根津寿夫氏(徳島城博物館学芸員)

講演会「阿波の火縄銃」
平成24年1月14日(土曜)13:30~15:00
講師 坂本憲一氏(阿波市文化財保護審議委員)

徳島城博物館のホームページ
http://www.city.tokushima.tokushima.jp/johaku/
2012/01/22(Sun) 23:45 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
情報御礼
市野澤さん

先日はお疲れ様でした。

また徳島県の企画についての情報提供有難うございます。
行くのは難しいですが、図録があれば何とかと思います。
取り急ぎ御礼まで。
2012/01/23(Mon) 14:41 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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