歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第221回
―大隅出身、最盛期の学僧―

連載が本日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は、おそらく鹿児島でもほとんど知られていない人物です。
栃木県足利市にある足利学校は中世を通して、わが国の学問の殿堂といってよいところでした。
天文~天正前期年間にかけて、その七代目の校長(同校では庠主と呼ぶ)が九華です。
かれは臨済宗の僧侶で、玉崗瑞よ(王へん+與)いう僧名をもっていますが、九華は同校での学徒名です。
彼が庠主だったとき、学徒数は3000人に達したともいわれ、同校の全盛期でした。

九華が大隅の伊集院氏の出身であることまではわかりますが、それ以上はさっぱりです。何せ、伊集院氏は多くの系統があり、系図関係に弱い私にはお手上げです。もし詳しい方がおいでで、何かご存じならご教示いただければ幸いです。

足利学校の特徴としてはまず、一口に儒学といっても、宋の朱熹(朱子学の祖)登場以前の「古注」(漢や唐の時代の解釈)を採用していることです(新注の書物もないわけではない)。この点については、「新注」派から時代遅れと批判されているようです。
しかし、本家中国では清代からは逆に古注が再評価されるようになったとか(菅原正子『占いと中世人』講談社現代新書、2010年)。

もうひとつの特徴は易・占いなど占筮の学問を重視していたことで、とくに易経が基本テキストになっていたようです。九華の伝授した占筮の文書も数点残っているとか。

九華と北条氏康・氏政との出会いもなかなか印象深いですね。
永禄3年(1560)段階で、北条氏が下野を支配下に置いていたかどうかわかりませんが、北条氏にとって、足利学校は金沢文庫とともに重要な「知」の施設だったのではないかと思われます。
北条父子の引き留めにより、九華は帰国を断念してしまったわけですが、帰国していたら、おそらく島津義久の政治顧問になったのではないでしょうか。
また帰国しなかったために、その履歴や系譜が鹿児島では忘れ去られてしまったのではないかと思われます。
不勉強ゆえ、記事のことくらいしか書けませんでしたが、鹿児島のどこかに九華に関する史料が存在しているかも知れません。

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【2012/01/16 19:43】 | さつま人国誌
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足利学校
ばんない
こんばんは。私も伊集院氏の系図を見てみましたが、そのものずばりの人物は見あたりませんでした。怪しそうな人は何人かいましたが…。

島津氏で足利学校に関係した(し損ねた?)人物と言えば、島津運久の庶子・忠貞(長徳軒)がいますね。ついでに北条氏親に引き留められたという点も似ています。

長徳軒
桐野
ばんないさん

やはり九華はどの伊集院氏なのか見当たりませんか。ばんないさんが見つけられなかったら、私では到底ダメです。

長徳軒のことは知りませんでした。ご教示感謝です。

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この記事へのコメント
足利学校
こんばんは。私も伊集院氏の系図を見てみましたが、そのものずばりの人物は見あたりませんでした。怪しそうな人は何人かいましたが…。

島津氏で足利学校に関係した(し損ねた?)人物と言えば、島津運久の庶子・忠貞(長徳軒)がいますね。ついでに北条氏親に引き留められたという点も似ています。
2012/01/16(Mon) 23:23 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
長徳軒
ばんないさん

やはり九華はどの伊集院氏なのか見当たりませんか。ばんないさんが見つけられなかったら、私では到底ダメです。

長徳軒のことは知りませんでした。ご教示感謝です。
2012/01/17(Tue) 10:21 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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