歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第223回
―老中・阿部正弘を説得―

連載が昨日更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は先日亡くなった芳即正(かんばし・のりまさ)さんの追悼の意味を込めて書きました。
芳さんの数多い業績のなかで、やはり調所広郷の再評価が大きな仕事だったと個人的に思っています。
鹿児島では、調所は「名君」島津斉彬に敵対し、西郷隆盛から恨みを買った「悪家老」にされていますが、芳さんはその「汚名」を雪ぐだけでなく、たしかな史実に基づいて、調所を藩政史のなかに位置づけ直しました。

そのなかでも、調所の琉球での対仏貿易の企てはほとんど知られていないので、ぜひ紹介しようと思いました。
ペリー艦隊の来航に先立ち、琉球に何度か来航した仏船が修好・貿易さらにキリスト教の布教まで要求したことは、幕府の「鎖国」体制を揺るがす一大事件でした。
琉球は当時、清国と薩摩藩に両属しています。フランスはアヘン戦争に敗北したばかりの清国に強請して、琉球との貿易権を得るオプションをもっていました。そんななか、幕府の「鎖国」体制を守りつつ、薩摩藩の琉球支配(とくに唐物貿易)を貫徹するのは至難の業です。

調所はフランスとの戦争になれば、すべてが終わりになるという危機感から、琉球において対仏貿易を一部認めることで、この危機は乗り切れると判断し、老中阿部正弘との会談に臨みます。結果は調所の勝利でした。
阿部は老中、調所は陪臣の家老という立場ながら、調所にとって三回り年齢が下の阿部を説き伏せるのは造作もなかったことでしょう。薩摩藩が琉球を通じて得た外交や貿易の経験が優っていたからだと思います。

サブタイトルを「老中・阿部正弘を説得」としましたが、当初、「説得」を「籠絡」としておりました。調所が阿部を丸め込んだという意味で使いました。しかし、「籠絡」は難しいかなと思って「説得」に変更したのですが、やはり語感的には「籠絡」のほうがよかったですね。

あと、紙数の関係で書けませんでしたが、当時の琉球王府の力量や交渉力もなかなかのものです。
既得権確保にやっきになる薩摩藩に対して、両属関係を巧みに活用して薩摩藩に次々と譲歩を迫るやり方はある種の凄みがあります。
調所が阿部から黙許された対仏貿易も、結局、琉球王府が潰してしまいます。フランスとの貿易を認めたら、他の欧米列強からも要求され拒絶できなくなる、薩摩はそれでいいのか、やるなら中国でやってくれと切り返されると、調所も引き下がらざるをえませんでした。
老中阿部には勝った調所も琉球王府には敗北しています。薩摩藩に一方的に支配・抑圧されている琉球というイメージも、幕末に関しては通用しないようです。

調所については、いろいろ書きたいこともあるのですが、中途半端なままでは取り組めない対象だなと思っていました。やはり幕末薩摩の巨人です。芳さんの死去という区切りに、ようやくその一部を紹介できました。

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【2012/01/31 10:08】 | さつま人国誌
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