歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第224回
―大力剛腕、日新斎の娘婿―

本日、連載が更新になりました。いつもは夕方に更新されることが多いのですが、朝早くの更新に驚いています。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前々回の続きです。
島津日新斎の二女御隅の夫、樺山玄佐を上・下2回にわたって書くことにしました。
玄佐は出家名で、実名は善久、官途名は安芸守です。
彼は自記を遺していて、『樺山玄佐自記』として活字化もされています。樺山氏の略史であるとともに、戦国の南九州史を叙述したもので、貴重な史料です。個人的な関心でいえば、薩州家島津実久が守護職を襲ったことを事実上認めている点でしょうか。これは日新斎以降の(相州家)島津氏の「正史」では抹殺されている事柄です。

それで、(上)は玄佐の武将としての側面を書きました。
前々回、貴重な玄佐・御隅肖像画を紹介したとき、気になっていたのは、玄佐の右脇に立つ抜き身の大刀でした。今回、子孫の樺山久孝さんからの聞き取りなどもして、ある程度謎解きができたかなと思っています。記事でも紹介したように、玄佐が五尺の大太刀を使っていたという「薩藩旧伝集」の驚くべき伝承と、樺山氏四代孝久が大覚寺義昭(六代将軍義教の弟)を日向櫛間で討ったときに、将軍義教から拝領した銘刀「備前国宗」の存在。この2つから造形されたのではないかと感じました。
肖像画でも、この大刀は坐っている玄佐の倍ほどの長さがあり、150センチ以上あるように思われます(ただ、柄が異常に長いですが)。
なお、この備前国宗は玄佐から島津義久に献上されたのち、明治以降、島津家から照国神社に所蔵が移り、現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館に寄託されています。戦後の混乱の一時期、行方不明になっていましたが、アメリカのコレクターが発見して返還され、1964年に国宝指定されました(文化庁の国指定文化財等データベースより)。
もっとも、その全長は81センチ余で、五尺はありません。

(下)では、玄佐の歌人としての側面とその死を取り上げたいと思います。

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【2012/02/06 10:44】 | さつま人国誌
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