歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

鹿児島県史料

年に2度か3度ある鹿児島の春苑堂書店からの定期便。
『鹿児島県史料』新刊の送付があった。今回の2点は、次のとおり。

1,薩摩藩法令史料集四 6.510円
2,旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集七 6.510円


この2点の刊行予告案内は以前も本欄で紹介したことがある。

今回はとくに2,が面白いと思う。
まだざっと見ただけだが、有名な『旧記雑録』の編者である季安の15本の考察史料が載っている。まず長い題名のこれ、

「琴月様御養子願之儀為政貞昌相勤候事件調」

「琴月様」とは、近世薩摩藩祖で中納言の島津家久の諡号である。
何が面白いかというと、島津義久の家老だった平田増宗の一件から、義久の家督問題について、かなり詳しい史料と考察がある。
義久の家督は、三人の娘のうち、三女亀寿(これまで何回も取り上げたジメサア)の聟家久と、二女(御さや)の嫁ぎ先である垂水島津家の間で争われたが、結局、前者の勝利となった。

その後、垂水島津家系統(彰久―信久―久章)である新城島津家の島津大和守久章が島津本宗家伝来の系図を持って出奔し、高野山にこもるという事件があった。これは幕府にも聞こえるほどの大事件になったが、結局、久章は連れ戻されて谷山で幽閉され、乱心の理由で斬られている。
この史料は、この事件のいきさつが多くの関係者の文書を収録しながら、大変詳しく書かれている。

そして、この事件の処理にあたったのは、家久の筆頭家老だった伊勢貞昌である。貞昌は名家老と言われるが、とくにこの家督問題をめぐって、徳川幕府の権威を利用しようし、将軍秀忠の二男国松(のちの駿河大納言忠長)を家久の養子に迎えようと幕閣に申し入れるというウルトラCまで考えついた人物である。季安は、貞昌のこの行動を非難しているのが面白い。

なお、上記2点の取扱は、

春苑堂書店南鹿児島店
〒890-0068 鹿児島市東郡元町19-6
電話:099-812-3221

スポンサーサイト

【2007/04/06 23:55】 | 新刊
トラックバック(0) |


佐多
伊勢家系譜がマイブームです。大隈町誌と町誌別冊資料編2に詳しい系譜が記載されていました。伊勢貞昌は新納忠元の孫だったんですね。江戸で没して広岳院に葬られたそうです。島津忠紀の墓は確認しましたが伊勢貞昌はあったことがわからなかったので未確認です。没落士族は何でも売却していたのですね。文書もコレクターの方に大事に保存されていたようで現在は宮崎の博物館や鹿児島大学に寄贈されているそうです。

伊勢家
桐野
佐多さん、こんばんは。

伊勢家といえば、何といっても伊勢貞昌が始祖のようなものですね。貞昌は新納忠元の孫でしたか。
貞昌が広岳院に葬られたなら、墓石がありそうですね。そのうち、戒名・院号をメモってから調べてみようかなと思います。

伊勢家の所領は大隅町の岩川や末吉町あたりにありましたね。高6000石余ですから、なかなかの大身です。
大隅町は市町村合併で現在、曽於市になったようですね。
伊勢家は一所持ですから私領主になるわけですが、戊辰戦争でこの地から出征したのが「私領五番隊」でした。焼酎の銘柄にもありますね。昨年初めて呑みました。
たしか、そのときの戦功により、岩川が末吉から分離独立したのではなかったかなと記憶しておりますが、うろ覚えです。



佐多
こんばんわ。
墓に関して詳しいサイトです。
http://www4.airnet.ne.jp/soutai/patio/patio.cgi?
仰るとおり岩川郷として分離したそうです。伊勢家は昭和天皇のご成婚時に授爵願い運動があり黒岡某(帯刀か?…豊州二男家)が尽力されたのですが、華族としての対面が保てるか?とのことで沙汰止みになってしまったそうです。黒岡家の墓所は鎌倉寿福寺にあります。
他に堅馬場川上家(嫡流)の私領もあったようです。二十四代久竜氏は十七歳で日置領主繁麿氏と米国へ渡り、帰国後国際的なホテルのマネージャーや支配人をなされていたそうです。(語学堪能で性格は至って温厚であったと島津忠弘氏の回顧談あり…知覧島津家当主か?)

琴月様御養子願之儀為政貞昌相勤候事件調
ばんない
ごぶさたしております。ようやく暖かくなってきたので収束しそうですが、インフルエンザが4月になっても流行っていたようですね。お大事に。

ところで、私も気になりますその史料(汗)
でも、以前『鹿児島県史料集』15に所収されていた
「家久公御養子御願一件」
とは別ものなんでしょうか?

底本が異なるようです
桐野
ばんないさん、こんばんは。

そうでした。私も似ているなと思って気になっており、チェックしようと思いつつ忘れておりました。

結論から申しますと、内容的にはほぼ同じですが、底本が異なり、多少の異同があるようです。

A.「琴月様御養子願之儀為政貞昌相勤候事件調」
 底本:東京大学史料編纂所所蔵島津家本、写本

B.「家久公御養子一件伊地知季安考按」
 底本:鹿児島県立図書館所蔵写本

とくに大きな違いは、Aの解題によれば、Aには末尾に「伊勢貞昌請若君論」という題名の山本正誼の見解と、それに対する季安の批判などが増補されているようです。Bにはそれらが存在しません。増補分は分量的に、刊本で4頁強程度です。




伊勢家の授爵運動
桐野
佐多さん、こんばんは。

伊勢家の授爵運動があったのですか。貴重な話題有難うございます。
でも、伊勢家にどれほどの功労があったとしても、残念ながら、華族の要件を満たしていないと思います。あるいは、幕末期に島津本家から養子が入ったりしているのでしょうか? 仮にその血統があったとしても、血統より家格が優先しますね。
御三家の付家老の家が辛うじて男爵(尾張藩の成瀬家は子爵だったか)になれたのがおそらく最低要件で、それ以外の陪臣は難しいと思います。沙汰止みにされて正解だったと思います。

コメントありがとうございます
ばんない
今回の『鹿児島県史料』の方がやや長い内容の様ですね。
>Aには末尾に「伊勢貞昌請若君論」という題名の山本正
>誼の見解と、それに対する季安の批判などが増補されて
>いるようです。
山本正誼の論の内容が分からないので推測ですが、伊地知季安は元々伊地知家の出身ではなく伊勢氏からの養子らしいので(URL参照)、おそらく山本は伊勢貞昌の施策をけなしていて、伊地知がそれに対して反論するっていった内容なのでしょうか。

伊勢氏は貞昌の息子が早世して孫には女子しかなかったので、その後は島津家久(忠恒)の子供の一人が養子になってますね。その後も藩主の子供が養子に入っているケースが多いです。それとひきかえに、といってはなんですが、貞昌ほどの家老を出しながら、その後の伊勢氏は藩政で活躍した人物を輩出していないようです。一所地6000石で、跡取りになれそうにない藩主の息子を養子に押しつけるには適当な家だったのでしょう。ただ、幕末の伊勢氏当主に関しては存じません。

伊勢の殿様
鳥江 悠
 私の祖母の兄嫁だった「ひで」ばあさんは、薩摩の伊勢家・伊勢直記・すまの二女として明治7年10月11日に生まれています。
「小さいころ殿様の膝で遊んだ」とよく話してくれました。幼かったゆえ、詳しいことは訊いていませんが、養女にいった姉が所持していた「伊勢直記」の墓碑銘の写しを預かっています。

 ここに平川毅識という人が書いた、伊勢直記の墓碑銘の写しがあります。
「伊勢貞喬、通称勘之丞。後改直記。貞喬之父貞幹、為留守居附役、在京師。文久癸亥歳貞喬従。久光公在京、明年父貞幹歿、貞喬襲父職。明年長藩大挙侵京。当是時、貞喬護乾門、…(明治)八年三月一三日嬰病歿。年三十一。嗚呼惜哉。於是紀始終云爾。」(中略、原文には句読点なし)
 何か情報がわかればいいなと思っています。


よくわかりません
桐野
鳥江 悠さん

お尋ねの件ですが、薩摩関連の系図集によると、伊勢氏は10家くらいあるようですが、ご先祖のお名前は見出せませんでした。

また、幕末安政年間の鹿児島城下の住人がわかる鹿児島城下絵図散歩』の巻末資料に「伊勢勘兵衛」という直記さんの通称勘之丞に近い名前はあります。その父貞幹さんの通称がわかれば、照合はできますが。

とりあえずわかったのは以上です。
お役に立てずにすみません。

お礼、感謝!
鳥江 悠
 早速ご丁寧なご返事をありがとうございます。祖母の父、直記は蛤ご門の変で目を負傷し、それがもとで亡くなっています。
  ご多忙のところをお調べいただき恐縮しています。ありがとうございました。ますますのご活躍をお祈りしています。

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
伊勢家系譜がマイブームです。大隈町誌と町誌別冊資料編2に詳しい系譜が記載されていました。伊勢貞昌は新納忠元の孫だったんですね。江戸で没して広岳院に葬られたそうです。島津忠紀の墓は確認しましたが伊勢貞昌はあったことがわからなかったので未確認です。没落士族は何でも売却していたのですね。文書もコレクターの方に大事に保存されていたようで現在は宮崎の博物館や鹿児島大学に寄贈されているそうです。
2007/04/09(Mon) 22:40 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
伊勢家
佐多さん、こんばんは。

伊勢家といえば、何といっても伊勢貞昌が始祖のようなものですね。貞昌は新納忠元の孫でしたか。
貞昌が広岳院に葬られたなら、墓石がありそうですね。そのうち、戒名・院号をメモってから調べてみようかなと思います。

伊勢家の所領は大隅町の岩川や末吉町あたりにありましたね。高6000石余ですから、なかなかの大身です。
大隅町は市町村合併で現在、曽於市になったようですね。
伊勢家は一所持ですから私領主になるわけですが、戊辰戦争でこの地から出征したのが「私領五番隊」でした。焼酎の銘柄にもありますね。昨年初めて呑みました。
たしか、そのときの戦功により、岩川が末吉から分離独立したのではなかったかなと記憶しておりますが、うろ覚えです。
2007/04/11(Wed) 01:05 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんばんわ。
墓に関して詳しいサイトです。
http://www4.airnet.ne.jp/soutai/patio/patio.cgi?
仰るとおり岩川郷として分離したそうです。伊勢家は昭和天皇のご成婚時に授爵願い運動があり黒岡某(帯刀か?…豊州二男家)が尽力されたのですが、華族としての対面が保てるか?とのことで沙汰止みになってしまったそうです。黒岡家の墓所は鎌倉寿福寺にあります。
他に堅馬場川上家(嫡流)の私領もあったようです。二十四代久竜氏は十七歳で日置領主繁麿氏と米国へ渡り、帰国後国際的なホテルのマネージャーや支配人をなされていたそうです。(語学堪能で性格は至って温厚であったと島津忠弘氏の回顧談あり…知覧島津家当主か?)
2007/04/12(Thu) 23:23 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
琴月様御養子願之儀為政貞昌相勤候事件調
ごぶさたしております。ようやく暖かくなってきたので収束しそうですが、インフルエンザが4月になっても流行っていたようですね。お大事に。

ところで、私も気になりますその史料(汗)
でも、以前『鹿児島県史料集』15に所収されていた
「家久公御養子御願一件」
とは別ものなんでしょうか?
2007/04/13(Fri) 01:01 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
底本が異なるようです
ばんないさん、こんばんは。

そうでした。私も似ているなと思って気になっており、チェックしようと思いつつ忘れておりました。

結論から申しますと、内容的にはほぼ同じですが、底本が異なり、多少の異同があるようです。

A.「琴月様御養子願之儀為政貞昌相勤候事件調」
 底本:東京大学史料編纂所所蔵島津家本、写本

B.「家久公御養子一件伊地知季安考按」
 底本:鹿児島県立図書館所蔵写本

とくに大きな違いは、Aの解題によれば、Aには末尾に「伊勢貞昌請若君論」という題名の山本正誼の見解と、それに対する季安の批判などが増補されているようです。Bにはそれらが存在しません。増補分は分量的に、刊本で4頁強程度です。


2007/04/13(Fri) 01:19 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
伊勢家の授爵運動
佐多さん、こんばんは。

伊勢家の授爵運動があったのですか。貴重な話題有難うございます。
でも、伊勢家にどれほどの功労があったとしても、残念ながら、華族の要件を満たしていないと思います。あるいは、幕末期に島津本家から養子が入ったりしているのでしょうか? 仮にその血統があったとしても、血統より家格が優先しますね。
御三家の付家老の家が辛うじて男爵(尾張藩の成瀬家は子爵だったか)になれたのがおそらく最低要件で、それ以外の陪臣は難しいと思います。沙汰止みにされて正解だったと思います。
2007/04/13(Fri) 01:30 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
コメントありがとうございます
今回の『鹿児島県史料』の方がやや長い内容の様ですね。
>Aには末尾に「伊勢貞昌請若君論」という題名の山本正
>誼の見解と、それに対する季安の批判などが増補されて
>いるようです。
山本正誼の論の内容が分からないので推測ですが、伊地知季安は元々伊地知家の出身ではなく伊勢氏からの養子らしいので(URL参照)、おそらく山本は伊勢貞昌の施策をけなしていて、伊地知がそれに対して反論するっていった内容なのでしょうか。

伊勢氏は貞昌の息子が早世して孫には女子しかなかったので、その後は島津家久(忠恒)の子供の一人が養子になってますね。その後も藩主の子供が養子に入っているケースが多いです。それとひきかえに、といってはなんですが、貞昌ほどの家老を出しながら、その後の伊勢氏は藩政で活躍した人物を輩出していないようです。一所地6000石で、跡取りになれそうにない藩主の息子を養子に押しつけるには適当な家だったのでしょう。ただ、幕末の伊勢氏当主に関しては存じません。
2007/04/15(Sun) 00:36 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
伊勢の殿様
 私の祖母の兄嫁だった「ひで」ばあさんは、薩摩の伊勢家・伊勢直記・すまの二女として明治7年10月11日に生まれています。
「小さいころ殿様の膝で遊んだ」とよく話してくれました。幼かったゆえ、詳しいことは訊いていませんが、養女にいった姉が所持していた「伊勢直記」の墓碑銘の写しを預かっています。

 ここに平川毅識という人が書いた、伊勢直記の墓碑銘の写しがあります。
「伊勢貞喬、通称勘之丞。後改直記。貞喬之父貞幹、為留守居附役、在京師。文久癸亥歳貞喬従。久光公在京、明年父貞幹歿、貞喬襲父職。明年長藩大挙侵京。当是時、貞喬護乾門、…(明治)八年三月一三日嬰病歿。年三十一。嗚呼惜哉。於是紀始終云爾。」(中略、原文には句読点なし)
 何か情報がわかればいいなと思っています。
2011/10/05(Wed) 16:47 | URL  | 鳥江 悠 #U9y2hceQ[ 編集]
よくわかりません
鳥江 悠さん

お尋ねの件ですが、薩摩関連の系図集によると、伊勢氏は10家くらいあるようですが、ご先祖のお名前は見出せませんでした。

また、幕末安政年間の鹿児島城下の住人がわかる鹿児島城下絵図散歩』の巻末資料に「伊勢勘兵衛」という直記さんの通称勘之丞に近い名前はあります。その父貞幹さんの通称がわかれば、照合はできますが。

とりあえずわかったのは以上です。
お役に立てずにすみません。
2011/10/07(Fri) 00:17 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
お礼、感謝!
 早速ご丁寧なご返事をありがとうございます。祖母の父、直記は蛤ご門の変で目を負傷し、それがもとで亡くなっています。
  ご多忙のところをお調べいただき恐縮しています。ありがとうございました。ますますのご活躍をお祈りしています。
2011/10/07(Fri) 11:49 | URL  | 鳥江 悠 #U9y2hceQ[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。