歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第226回
―島津重豪が鎌倉に建立―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。
当日中とはいえ、更新が遅かったです。おそらく、大学入試や県下一週駅伝などの取材で大変だったのではないかと思います。

さて、今回は先日ニュースになった鎌倉の源頼朝の石塔が破損された一件を書きました。
書いたあとで何ですが、被害の程度(塔頂部が叩き落とされた)からは「破壊」より「破損」のほうが適切だっただろうか? 

今回の肝ないし疑問は2点ほど。
まず、島津重豪は本当に石塔(墓石や供養塔と称するもの)を建てたのかどうかという点。これまた書いたあとで何ですが、疑問が湧いてきました。
『旧記雑録追録』所収の重豪譜には、玉垣、石灯籠、石盥盤、「神道の石」の4点セットと、石垣の外に石碑と目録石を建立したとある。
このうち、玉垣、石灯籠、石盥盤、石碑、目録石は現存している。
しかし、石塔を建立したとは書いてないのに、石塔もなぜか存在している。ここを参照。
だから、消去法で「神道の石」が石塔かなと推測したんだけど、果たしてどうなのか? あるいは石塔だけは重豪以前にもあったから建立しなかったのか? それにしては新しい気がするが。
また石塔を含めた墓所全体は神道式といえるのか? 仏教の要素もある気がするけど……。

重豪が石塔を建立したとするのがそもそも思い込みで問題なのかも?
重豪が建立したときには、五輪塔か何か頼朝の墓らしきものがまだあったのではないか?
あるいは、重豪から100年後、島津久光が奈良原繁や有村国彦に命じて、この墓所の再建、修築をしたとき、改めて現存する石塔を建立した可能性もあるのでは?
何かの史料に重豪以前には小さな五輪塔があっただけという一節を読んだことがあったが、それが頼朝のもともとの墓だったのだろうか? もしご存じの方がおいでなら、ご教示下さいませ。

もうひとつは、やはり島津氏初代忠久を頼朝の庶長子とする島津家の「伝承」について。
これについては、研究上、完全に否定されているといってよい。
先行研究の到達点が奈辺にあるのかきちんと調べているわけではないが、記事にも書いた野口実氏の「惟宗忠康」説がもっとも最新の成果か。官職や名前の一字が共通していることから、「惟宗広言」説よりも信憑性が高い気がする。

いずれにせよ、「伝承」と「史実」は混同せず峻別する態度が肝要かと。

さて、次回はどうしようか?
いくつか腹案があるが、どれも帯に短し襷も短しという状態だ(笑)。

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【2012/02/27 23:36】 | てらこや
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お帰りなさい
市野澤 永
おはようございます。

下総結城氏にも頼朝御落胤伝説があります。
いつか書きたいですね。

現在、PCが壊れています。
先月のような、ご依頼がございましたら、携帯へご連絡下さい。

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コメント
この記事へのコメント
お帰りなさい
おはようございます。

下総結城氏にも頼朝御落胤伝説があります。
いつか書きたいですね。

現在、PCが壊れています。
先月のような、ご依頼がございましたら、携帯へご連絡下さい。
2012/02/28(Tue) 07:01 | URL  | 市野澤 永 #-[ 編集]
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