歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第227回
―吉良上野介の不幸な娘―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

明後日の3月14日は旧暦だと、松の廊下刃傷事件の日です。
それにちなんだ記事を書きました。

吉良上野介義央の長女鶴姫が(米沢藩上杉家の養女として)薩摩藩3代藩主・島津綱貴の継室(後妻)になったことはほとんど知られていません。
3月14日に関連する出来事だったので、今回書いた次第です。
もっとも、彼女の情報は非常に少ないです。生没年や結婚、離婚の日くらいしかわかりません。
それだけでは、まことに不十分なので、その頃の島津氏をめぐる状況など背景を述べることで補足しました。

未見ですが、本記事で引用した論文の筆者がこの一件を最近の論文で再論した由、鹿児島の研究者から教えてもらいました。そちらには鶴姫についてもう少し詳しい情報があったようです。不勉強で残念でした。

それはともあれ、綱貴と鶴姫の結婚生活が長続きしなかったことは、2人にとっては不幸だったかもしれませんが、薩摩藩にとっては結果的に幸運だったかも。
離婚から20年後に松の廊下刃傷事件と赤穂浪士の吉良邸討ち入りが起こります。吉良義央の姻戚である島津氏としてはある程度の助力をしなければならなかったかもしれません。

仮定の話ですが、たとえば、吉良家から加勢の要請があり、島津家中から20人ほどが助勢していたとしたら、堀部安兵衛と薬丸自顕流の対決があったりとか、あるいは薩摩藩士たちの抗戦により赤穂浪士の討ち入りはあのようにうまくいかず、もしかしたら失敗していたかもとか想像がふくらみますが、その一方で、江戸市中での私闘に関与したとして罪に問われるかもしれないとか、面倒なことになったかもしれませんね。

いささか不謹慎な妄想ですが、歴史の綾や縁を感じた次第です。

【追記】
南日本新聞サイトの記事で、貝原益軒の言葉に触れた部分がありますが、「封建習慣」は間違いで「封建慣習」が正しいです。訂正しておきます。

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【2012/03/12 16:48】 | さつま人国誌
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