歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
本日、午後から武蔵野大学生涯学習講座のため、三鷹のサテライトキャンパスに出講。

信長公記を読む」も第6回で、今期の最後になる。
テーマは「金ヶ崎の退き口と元亀争乱の幕開け」

信長の越前出陣は私戦ではなく、幕府軍としての出陣であり、朝廷の支援(戦勝祈願)も受けていたことを説明。
信長の出陣を記した宮廷女官の『御湯殿の上の日記』に興味深い記事あり。

「のふなかの御ちこ」(信長の御稚児)が禁裏御所の庭を見学し、大典侍(おおすけ)、新大典侍(しんおおすけ)、長橋局(ながはしのつぼね)などに礼を述べたとある。

「御稚児」は「御」が付いているから、信長の息子と考えるべきだろうと話す。
このとき、二男信雄が上京していることは確認できる。
信雄(13歳)が該当するか? 
あるいは長男信忠(14歳)も含まれるか?

その他、有名なお市の方の小豆袋の逸話も紹介した。

珍しくちょうど時間内に講座は終わったのだが、終了後、質問がたくさん出たため、後ろの講座に少し迷惑かけてしまった。すみません。

信忠で思い出した。
余談だが、武田氏研究者の丸島和洋さんが、穴山信君の諱の読みが「のぶきみ」ではなく「のぶただ」だと紹介していて、のけぞった。人名の読みは難しい。

次回からは新年度で、「信長公記を読む」を継続します。
6回とも元亀争乱まっただなかのテーマになります。
詳しくはまた告知しますが、興味のある方はご参加下さいませ。

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【2012/03/16 23:17】 | 武蔵野大学社会連携センター
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ハンク
いつも勉強になります。
「のふなかの御ちこ」云々は、信長の御乳(養徳院)が小御所の庭を見物したのだと思っていました。

御ちこ
桐野
ハンクさん

「御ちこ」はたしかに解釈が悩ましいですね。
御乳人の可能性もないとはいえませんね。その場合、「御乳御」となるんでしょうか? 「母御」みたいな感じで。
私は忠実に読んで「御稚児」かなと思ったものですから。
もっとも、14、5歳の男子を「稚児」と呼ぶかどうか。もう元服の頃ですからね。


A
桐野先生こんばんわ。
北国新聞のホームページの13日のニュース、「信長像、10年ぶり確認 金沢・泉野菅原神社」にある画像の、信長の座っている畳のふちが気になっています。
これって繧繝縁(うんげんべり)でしょうか?
拡大してみるとちょっと違うようにも見えますが。
『泉野菅原神社はもともと、加賀藩2代藩主前田利長の正室永姫(玉泉院)の父である織田信長を徳川幕府時代にひそかにまつっていた珍しい神社』という点と合わせて真相が気になるところです。

茶筅か
桐野
「御ちこ」の件ですが、養徳院でないとすれば、やはり茶筅こと信雄かもしれないですね。

茶筅の元服は元亀3年(1572)1月ですから、記事の時点では、まだ元服前の前髪です。「御稚児」でもおかしくないかと。

それに、茶筅は伊勢国司家、村上源氏の名門北畠氏の跡取りですから、禁裏御所内に入ってもおかしくありません。

その点、奇妙こと信忠は兄とはいえ、公家ではないですから、茶筅より少しハードル高いですし、このとき在京しているかどうか確認できません。

繧繝縁?
桐野
Aさん

お尋ねの繧繝縁の件ですが、私にはよくわかりません。すみません。

前田利長は細川忠興とともに、信長から信忠の側近として期待されていたと思いますし、何より永姫を通じて信長の女婿ですからね。前田家に信長像を祀る神社があってもおかしくないと思います。
徳川時代、秀吉は別として、信長崇拝はそれほど問題視されなかったのではないでしょうか。

そういえば、細川家の永青文庫からも、信長木像が出てきたそうですよ。これまで門外不出だったようです。
忠興こそ、有名な信長の自筆感状もあり、熱烈な信長崇拝者ですからね。たしか信長の50回忌にも老体にむち打って大徳寺に参詣しています。



御ちこ
ハンク
「御ちこ」=茶筅、ご教示ありがとうございました。私は「御ち こ御所の庭」を「御乳、小御所の庭」と解釈していました。翌21日の「のふなか御ち」も「信長御乳」と理解していました。失礼しました。

御乳
桐野
ハンクさん

たびたびすみません。
私が講座で使ったテキストは、大日本史料所載の『御湯殿~』でした。信長の越前出陣の部分を使ったとき、ついでに読んだのですが、ご指摘を受けて『御湯殿~』を改めて見てみると、「御ち」に「乳」という傍注が付いていますね。
傍注が必ずしも正しいというわけではないですが、翌日条にも「御ち」(「御ちこ」ではなく)が登場し、「こ御所」も「小御所」と読めることを考えると、ご指摘どおりかもしれません。
ちょっと早とちりしたようです。
ご指摘有難うございました。


A
ありがとうございました。

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コメント
この記事へのコメント
いつも勉強になります。
「のふなかの御ちこ」云々は、信長の御乳(養徳院)が小御所の庭を見物したのだと思っていました。
2012/03/17(Sat) 16:40 | URL  | ハンク #-[ 編集]
御ちこ
ハンクさん

「御ちこ」はたしかに解釈が悩ましいですね。
御乳人の可能性もないとはいえませんね。その場合、「御乳御」となるんでしょうか? 「母御」みたいな感じで。
私は忠実に読んで「御稚児」かなと思ったものですから。
もっとも、14、5歳の男子を「稚児」と呼ぶかどうか。もう元服の頃ですからね。
2012/03/17(Sat) 18:38 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
桐野先生こんばんわ。
北国新聞のホームページの13日のニュース、「信長像、10年ぶり確認 金沢・泉野菅原神社」にある画像の、信長の座っている畳のふちが気になっています。
これって繧繝縁(うんげんべり)でしょうか?
拡大してみるとちょっと違うようにも見えますが。
『泉野菅原神社はもともと、加賀藩2代藩主前田利長の正室永姫(玉泉院)の父である織田信長を徳川幕府時代にひそかにまつっていた珍しい神社』という点と合わせて真相が気になるところです。
2012/03/17(Sat) 23:11 | URL  | A #-[ 編集]
茶筅か
「御ちこ」の件ですが、養徳院でないとすれば、やはり茶筅こと信雄かもしれないですね。

茶筅の元服は元亀3年(1572)1月ですから、記事の時点では、まだ元服前の前髪です。「御稚児」でもおかしくないかと。

それに、茶筅は伊勢国司家、村上源氏の名門北畠氏の跡取りですから、禁裏御所内に入ってもおかしくありません。

その点、奇妙こと信忠は兄とはいえ、公家ではないですから、茶筅より少しハードル高いですし、このとき在京しているかどうか確認できません。
2012/03/18(Sun) 00:29 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
繧繝縁?
Aさん

お尋ねの繧繝縁の件ですが、私にはよくわかりません。すみません。

前田利長は細川忠興とともに、信長から信忠の側近として期待されていたと思いますし、何より永姫を通じて信長の女婿ですからね。前田家に信長像を祀る神社があってもおかしくないと思います。
徳川時代、秀吉は別として、信長崇拝はそれほど問題視されなかったのではないでしょうか。

そういえば、細川家の永青文庫からも、信長木像が出てきたそうですよ。これまで門外不出だったようです。
忠興こそ、有名な信長の自筆感状もあり、熱烈な信長崇拝者ですからね。たしか信長の50回忌にも老体にむち打って大徳寺に参詣しています。

2012/03/18(Sun) 00:36 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
御ちこ
「御ちこ」=茶筅、ご教示ありがとうございました。私は「御ち こ御所の庭」を「御乳、小御所の庭」と解釈していました。翌21日の「のふなか御ち」も「信長御乳」と理解していました。失礼しました。
2012/03/18(Sun) 07:12 | URL  | ハンク #-[ 編集]
御乳
ハンクさん

たびたびすみません。
私が講座で使ったテキストは、大日本史料所載の『御湯殿~』でした。信長の越前出陣の部分を使ったとき、ついでに読んだのですが、ご指摘を受けて『御湯殿~』を改めて見てみると、「御ち」に「乳」という傍注が付いていますね。
傍注が必ずしも正しいというわけではないですが、翌日条にも「御ち」(「御ちこ」ではなく)が登場し、「こ御所」も「小御所」と読めることを考えると、ご指摘どおりかもしれません。
ちょっと早とちりしたようです。
ご指摘有難うございました。
2012/03/18(Sun) 09:29 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
ありがとうございました。
2012/03/18(Sun) 15:13 | URL  | A #-[ 編集]
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