歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨日、信長研究者の谷口克広氏と一年ぶりに会い、旧交を温めた。谷口氏は現在、北海道に住んでおり、今度上京したもの。

谷口氏からは、さっそく拙著の批評をいただいた。
よくできているが、長宗我部氏問題の部分が冗長で、テーマからはずれているのではないかと指摘された。
指摘された部分、たしかに分量が多いし、本能寺の変と関係ない記述もある。今後、叙述する際の全体構成についてのアドバイスだと受け取った。

また、私が紹介した新出の明智光秀文書。最大の関心は年次にあったので、谷口氏に意見を聞いてみたところ、天正10年でいいのではないかと言われたので、心強かった。谷口氏の知り合いの研究者は天正9年ではないかという意見だったそうだ。

その後も、信長についての研究動向、信長公記諸本の情報など、話は尽きなかった。
谷口氏も本能寺の変の著作を今月に上梓する。これも注目の一冊だろう。
版元のサイトにもまだ詳しい新刊紹介がないので、付記しておく。

検証本能寺の変 歴史文化ライブラリー232 吉川弘文館 四六判/定価1.890円

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【2007/04/14 21:03】 | 雑記
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「だれが信長を殺したのか」
小池
「だれが信長を殺したのか」を2度読み返しましたが、どうもすっきりしません。桐野さんが書かれておられるような「黒幕もいなければ、大義名分を振りかざした義戦でもなかった、唐突に実行された政変だった」という点に関してですが、じゃー光秀をこのような行動に駆り立てたのはなんだったのでしょうか。桐野さんは、四国の件で織田家内での立場が弱まったためと言われてると思いますが、まだそれ程追い詰められているとは思われません。信長が取り立てた程の人間が、見通しもなく、根回しもせずに発作的にクーデターを起こすでしょうかというのが正直な私の気持ちです。取次ぎをしていた長宋我部氏の役割がなくなったということですが、それは中国での戦で働けば取り返せるのではないかという気がします。資料に対しあらゆる角度から分析されている桐野さんに全くの度素人の私が思いつき程度に生意気なことを申し上げてすみません。素人の思い入れ位にお受け取りください。

私見ですが
桐野
小池さん、こんにちは。

ご意見有難うございます。

拙説については、史料不足もあって完全だとは思っておりません。しかし、朝廷黒幕説や将軍義昭黒幕説よりも相対的に蓋然性があると思っています。

合理的に考えるなら、本能寺の変の原因は、信長と光秀の間に何らかの対立・葛藤があったと見るのが自然ですね。
では、それが天正10年段階では何なのか。さまざまな政治的要因を消去していくと、四国問題と斎藤利三問題くらいしか残らないのではと思います。

むろん、これが決定的だったかどうか断定はできません。しかし、方法論としては、原因は相対的に妥当性、合理性のあるものに求めざるをえないのではないでしょうか。

仰せのとおり、四国問題が光秀の致命的な打撃かといえば、必ずしもそうとはいえないでしょうね。別に丹波などの所領を取り上げられたわけではありませんから。

でも、松永久秀にしても、荒木村重にしても同様で、所領を取り上げられたわけでもありません。一時的に信長の不興を買っても、別の仕事で取り戻せる可能性はありますが、二人とも反逆に踏み切っていますね。動機の深刻さの程度では、光秀もこの二人とさほど違うとは思えません。また久秀も村重も光秀に劣らぬ有能な人物だったと思いますが、その反逆のしかたに確乎とした見通しや根回しがあったとも思えません。この時代、意外と謀叛や反逆のハードルは低いといえそうです。
右肩上がりできた人間は多少後退しただけで、実体以上に深刻に考える傾向はありますね。

よい比喩だとは思いませんが、日本という国家、国民がそうですね。世界第二位の経済力をもちながら、近年はいろんな要因が重なり、自信を失い、斜陽国家になった、国民生活が立ちゆかなくなるかもしれないという被害妄想に取りつかれていますが、アフリカ諸国などとくらべたら、くらべものにならないくらい豊かです。
でも、往々にして、人間は自分を客観的に見ることが難しいですね。

私は四国問題や斎藤利三問題の根底に、天下人とその下の分国大名との流動的で不安定な相互関係が存在していたと思っています。とくに光秀が信長の専制的な姿勢(武篇道の押しつけなど)のために、分国大名の地位や権限が、信長の恣意に左右されることに不安を抱いていたのではないかと思います。光秀はもっと分国大名の地位や既得権益を認めてほしいという要求をもっていたのに、それを信長がどうしても容れてくれないと見切ったのではないでしょうか。

とくに、斎藤利三問題については、光秀は信長の強制する「武篇道」を何とか実現しようとした。そのためには軍団強化がいちばんです(佐久間信盛みたいになりたくないなら)。またその手っ取り早い方法は、有能で勇猛な武将をよそから引き抜いてくることです。これは武将一人だけでなく、その被官・家来も含めた集団ですから、軍団の速成強化としては非常に有効です。

光秀はそれを実行したわけですが、今度は信長が家中法度違反だと叱責し、利三に腹を切らせるまで怒りました。
光秀としては、「じゃあ一体どうすればいいんだよ」と混乱したのではないかと思います。「武篇道」と「家中法度」を両立できないと思い込んだかもしれませんね。

一方、信長から見ると、光秀を勝家・秀吉など他の分国大名よりも恣意的で身勝手だと思っていたかも知れません。
それは対長宗我部関係です。織田家の取次で、とくに戦国大名を交渉相手とする場合、取次がその相手と親族・姻戚関係まで結ぶことはまずありません。
対武田、対上杉、対毛利――その取次となった信長の部将や側近は誰一人として相手とそんな関係を結んでいません。

その意味では、明智と長宗我部の関係は非常に特殊で、織田家の取次制度から大きく逸脱していると思います。信長は光秀の長宗我部との恣意的な関係を統制違反だとして断ち切ろうとしたのかもしれません。
でも、光秀にはそれが既得権益の上からの侵害としか見えないと思います。

そうしたすれ違いがいくつも重なり、今後もその疑問・不安が解消されないばかりか、際限なき滅私奉公を強制されるだろうと光秀が判断した結果が本能寺の変ではないでしょうか。光秀にはこのままでは生き残れないという切迫感があったのではないでしょうか。

どこまでお答えになったかわかりませんが。


ありがとうございました
小池
大変ご丁寧な、ご説明ありがとうございました、このような素人向けのご説明が「だれが信長を殺したのか」に
あれば、私でもわかったなと思います。紙数の関係であまり懇切丁寧な説明を書いていたらきりがないのでしょうか。

感想まとめ
板倉丈浩
こんばんは。
私も小池さんと同感で、例えば終章の記述にこの「私見」が盛り込まれていれば、読者にとってもわかりやすく、御著書の完成度がより高まったのではないかと思いました。
さて、これまでの私の書き込みをまとめてみますと、こんなところです。

(1)本能寺の変が「不慮謀叛」=「唐突に実行された政変」であり、黒幕も大義も存在しなかったとする見解は、新紹介史料の解釈も含め、概ね妥当と思われる
(2)四国問題については、信長は天正8年頃から三好氏再興に理解を示し実際に支援しており、天正10年段階で政策が劇的に変化したとは言えないのではないか
(3)斎藤利三問題については、史料の信憑性に疑問があり、仮にこの問題が存在したとしても、天正10年の出来事とは思われない(ただし、利三ら重臣が謀叛に積極的に関与した可能性は高い)
(4)信長の無警戒ぶりから見て2人の間に何らかの対立があったとは考えがたく、謀叛は信長の酷薄な性格と光秀の利己主義的な動機に起因しているものと考えるべきではないか

結果としてバラバラに指摘したので論点がぼけてわかりにくくなってしまい、また私の読解力が至らなかった点もあり、申し訳ありませんでした。
これからもよろしくお願いします。


稲葉家譜の評価
桐野
小池さん、板倉さん、どうも。

上記で書いたことは、拙著にも断片的には書いているんですけどね。やはり説明不足だったようですね。以後、気をつけます。

これ以上の議論は水掛け論になるので、一点だけ。板倉さんの(3)について補足しておきます。

私は何度も書いたように、『稲葉家譜』(とくに利三の一件)はある程度使える信用できる史料だと思っています。その理由は2つあります。

(1)この件に限らず、同書全体にいえることですが、編年体の形式で、年月日まで克明に記していること。叙述のしかたも過度の修飾がなく禁欲的であり、また稲葉家中に伝来する多様な文書類を随所に引用して裏付けを示すなど、編集態度が良心的であること。

(2)利三の一件は、稲葉家にとって不名誉な出来事で恥になるにもかかわらず、あえて書いていること。したがって、粉飾だとは思えないこと。

年次についても、那波直治とセットに処理されたことは十分あり得ることで、利三の処分が死罪と重かったのは、ほかでもなく、利三が直治を引き抜いたと考えれば合点がいき、一連のプロセスを整合的に理解できること。したがって、利三への処分は退転がとがめられたのではなく、直治引き抜きの罪によるものだと考えられる。よって、直治退転が天正10年であれば、利三への処分も同年でもおかしくない。

なお、利三と直治の一件は、細川家の『永源師檀紀年録』や『明智軍記』にも記事があります。『永源~』の刊本は文化7年(1810)の写本を底本にしています。『明智軍記』は元禄6年(1693)本です。『永源~』の原典の成立時期が不明なので、両者の関係もよくわかりません。

『稲葉家譜』は、幕府に提出した公式史料である『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』と内容が異なり、同家中に秘蔵された孤立的な史料ではないかと思われます。

いずれにしろ、編纂史料の信用性の問題なので、論じる立場によって評価は異なると思います。でも、逆にいえば、この件で一次史料が出てくれば決定的な証拠になると思います。

以上で、私の釈明はこれで終わりにします。

RE:稲葉家譜の評価
板倉丈浩
こんばんは。
>これ以上の議論は水掛け論になるので

私は本能寺の変の要因について、現段階で最も依拠すべき史料は、何度も言及した細川父子あての光秀自筆覚書であり、その内容を素直に解釈するところからスタートすべきというスタンスでして、編纂史料、それも江戸時代のかなり後に作られたであろう家譜の類を重視するのはかなり抵抗があるので、しつこい印象を持たれたかもしれません。
お気を悪くされたのならお詫びしますm(_ _)m

>『稲葉家譜』は(中略)同家中に秘蔵された孤立的な史料ではないかと思われます。

編纂史料の扱いは難しいです。
成立年代がいつかにもよるとは思いますが、軍記や逸話集の影響を受けていないと言いきれるのかどうか・・・。
『稲葉家譜』の史料的価値について先行研究があればいいのですが、管見の限りなさそうですし。

>でも、逆にいえば、この件で一次史料が出てくれば決定的な証拠になると思います。

まあ、ぶっちゃけそうなんですよね。
江戸時代の編纂史料では本能寺について実にいろいろな説が唱えられていたのですが、一次史料、同時代史料による裏付けがないから今まで切り捨てられていたわけで、何か見つかればそれで決まりになるという話なわけです。

>以上で、私の釈明はこれで終わりにします。

釈明なんて言われてしまうとちょっと心苦しいのですが、真摯で丁寧なレスをいただき、本に書かれている以外にもいろいろ検討し深く考えておられることがわかりましたし、非常に有益な議論であったと考えております。
拙い議論におつきあいいただき、本当にありがとうございました。



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「だれが信長を殺したのか」
「だれが信長を殺したのか」を2度読み返しましたが、どうもすっきりしません。桐野さんが書かれておられるような「黒幕もいなければ、大義名分を振りかざした義戦でもなかった、唐突に実行された政変だった」という点に関してですが、じゃー光秀をこのような行動に駆り立てたのはなんだったのでしょうか。桐野さんは、四国の件で織田家内での立場が弱まったためと言われてると思いますが、まだそれ程追い詰められているとは思われません。信長が取り立てた程の人間が、見通しもなく、根回しもせずに発作的にクーデターを起こすでしょうかというのが正直な私の気持ちです。取次ぎをしていた長宋我部氏の役割がなくなったということですが、それは中国での戦で働けば取り返せるのではないかという気がします。資料に対しあらゆる角度から分析されている桐野さんに全くの度素人の私が思いつき程度に生意気なことを申し上げてすみません。素人の思い入れ位にお受け取りください。
2007/04/16(Mon) 22:15 | URL  | 小池 #PoWRB6fw[ 編集]
私見ですが
小池さん、こんにちは。

ご意見有難うございます。

拙説については、史料不足もあって完全だとは思っておりません。しかし、朝廷黒幕説や将軍義昭黒幕説よりも相対的に蓋然性があると思っています。

合理的に考えるなら、本能寺の変の原因は、信長と光秀の間に何らかの対立・葛藤があったと見るのが自然ですね。
では、それが天正10年段階では何なのか。さまざまな政治的要因を消去していくと、四国問題と斎藤利三問題くらいしか残らないのではと思います。

むろん、これが決定的だったかどうか断定はできません。しかし、方法論としては、原因は相対的に妥当性、合理性のあるものに求めざるをえないのではないでしょうか。

仰せのとおり、四国問題が光秀の致命的な打撃かといえば、必ずしもそうとはいえないでしょうね。別に丹波などの所領を取り上げられたわけではありませんから。

でも、松永久秀にしても、荒木村重にしても同様で、所領を取り上げられたわけでもありません。一時的に信長の不興を買っても、別の仕事で取り戻せる可能性はありますが、二人とも反逆に踏み切っていますね。動機の深刻さの程度では、光秀もこの二人とさほど違うとは思えません。また久秀も村重も光秀に劣らぬ有能な人物だったと思いますが、その反逆のしかたに確乎とした見通しや根回しがあったとも思えません。この時代、意外と謀叛や反逆のハードルは低いといえそうです。
右肩上がりできた人間は多少後退しただけで、実体以上に深刻に考える傾向はありますね。

よい比喩だとは思いませんが、日本という国家、国民がそうですね。世界第二位の経済力をもちながら、近年はいろんな要因が重なり、自信を失い、斜陽国家になった、国民生活が立ちゆかなくなるかもしれないという被害妄想に取りつかれていますが、アフリカ諸国などとくらべたら、くらべものにならないくらい豊かです。
でも、往々にして、人間は自分を客観的に見ることが難しいですね。

私は四国問題や斎藤利三問題の根底に、天下人とその下の分国大名との流動的で不安定な相互関係が存在していたと思っています。とくに光秀が信長の専制的な姿勢(武篇道の押しつけなど)のために、分国大名の地位や権限が、信長の恣意に左右されることに不安を抱いていたのではないかと思います。光秀はもっと分国大名の地位や既得権益を認めてほしいという要求をもっていたのに、それを信長がどうしても容れてくれないと見切ったのではないでしょうか。

とくに、斎藤利三問題については、光秀は信長の強制する「武篇道」を何とか実現しようとした。そのためには軍団強化がいちばんです(佐久間信盛みたいになりたくないなら)。またその手っ取り早い方法は、有能で勇猛な武将をよそから引き抜いてくることです。これは武将一人だけでなく、その被官・家来も含めた集団ですから、軍団の速成強化としては非常に有効です。

光秀はそれを実行したわけですが、今度は信長が家中法度違反だと叱責し、利三に腹を切らせるまで怒りました。
光秀としては、「じゃあ一体どうすればいいんだよ」と混乱したのではないかと思います。「武篇道」と「家中法度」を両立できないと思い込んだかもしれませんね。

一方、信長から見ると、光秀を勝家・秀吉など他の分国大名よりも恣意的で身勝手だと思っていたかも知れません。
それは対長宗我部関係です。織田家の取次で、とくに戦国大名を交渉相手とする場合、取次がその相手と親族・姻戚関係まで結ぶことはまずありません。
対武田、対上杉、対毛利――その取次となった信長の部将や側近は誰一人として相手とそんな関係を結んでいません。

その意味では、明智と長宗我部の関係は非常に特殊で、織田家の取次制度から大きく逸脱していると思います。信長は光秀の長宗我部との恣意的な関係を統制違反だとして断ち切ろうとしたのかもしれません。
でも、光秀にはそれが既得権益の上からの侵害としか見えないと思います。

そうしたすれ違いがいくつも重なり、今後もその疑問・不安が解消されないばかりか、際限なき滅私奉公を強制されるだろうと光秀が判断した結果が本能寺の変ではないでしょうか。光秀にはこのままでは生き残れないという切迫感があったのではないでしょうか。

どこまでお答えになったかわかりませんが。
2007/04/17(Tue) 01:17 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
ありがとうございました
大変ご丁寧な、ご説明ありがとうございました、このような素人向けのご説明が「だれが信長を殺したのか」に
あれば、私でもわかったなと思います。紙数の関係であまり懇切丁寧な説明を書いていたらきりがないのでしょうか。
2007/04/17(Tue) 14:59 | URL  | 小池 #PoWRB6fw[ 編集]
感想まとめ
こんばんは。
私も小池さんと同感で、例えば終章の記述にこの「私見」が盛り込まれていれば、読者にとってもわかりやすく、御著書の完成度がより高まったのではないかと思いました。
さて、これまでの私の書き込みをまとめてみますと、こんなところです。

(1)本能寺の変が「不慮謀叛」=「唐突に実行された政変」であり、黒幕も大義も存在しなかったとする見解は、新紹介史料の解釈も含め、概ね妥当と思われる
(2)四国問題については、信長は天正8年頃から三好氏再興に理解を示し実際に支援しており、天正10年段階で政策が劇的に変化したとは言えないのではないか
(3)斎藤利三問題については、史料の信憑性に疑問があり、仮にこの問題が存在したとしても、天正10年の出来事とは思われない(ただし、利三ら重臣が謀叛に積極的に関与した可能性は高い)
(4)信長の無警戒ぶりから見て2人の間に何らかの対立があったとは考えがたく、謀叛は信長の酷薄な性格と光秀の利己主義的な動機に起因しているものと考えるべきではないか

結果としてバラバラに指摘したので論点がぼけてわかりにくくなってしまい、また私の読解力が至らなかった点もあり、申し訳ありませんでした。
これからもよろしくお願いします。
2007/04/18(Wed) 06:00 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
稲葉家譜の評価
小池さん、板倉さん、どうも。

上記で書いたことは、拙著にも断片的には書いているんですけどね。やはり説明不足だったようですね。以後、気をつけます。

これ以上の議論は水掛け論になるので、一点だけ。板倉さんの(3)について補足しておきます。

私は何度も書いたように、『稲葉家譜』(とくに利三の一件)はある程度使える信用できる史料だと思っています。その理由は2つあります。

(1)この件に限らず、同書全体にいえることですが、編年体の形式で、年月日まで克明に記していること。叙述のしかたも過度の修飾がなく禁欲的であり、また稲葉家中に伝来する多様な文書類を随所に引用して裏付けを示すなど、編集態度が良心的であること。

(2)利三の一件は、稲葉家にとって不名誉な出来事で恥になるにもかかわらず、あえて書いていること。したがって、粉飾だとは思えないこと。

年次についても、那波直治とセットに処理されたことは十分あり得ることで、利三の処分が死罪と重かったのは、ほかでもなく、利三が直治を引き抜いたと考えれば合点がいき、一連のプロセスを整合的に理解できること。したがって、利三への処分は退転がとがめられたのではなく、直治引き抜きの罪によるものだと考えられる。よって、直治退転が天正10年であれば、利三への処分も同年でもおかしくない。

なお、利三と直治の一件は、細川家の『永源師檀紀年録』や『明智軍記』にも記事があります。『永源~』の刊本は文化7年(1810)の写本を底本にしています。『明智軍記』は元禄6年(1693)本です。『永源~』の原典の成立時期が不明なので、両者の関係もよくわかりません。

『稲葉家譜』は、幕府に提出した公式史料である『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』と内容が異なり、同家中に秘蔵された孤立的な史料ではないかと思われます。

いずれにしろ、編纂史料の信用性の問題なので、論じる立場によって評価は異なると思います。でも、逆にいえば、この件で一次史料が出てくれば決定的な証拠になると思います。

以上で、私の釈明はこれで終わりにします。
2007/04/18(Wed) 11:00 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
RE:稲葉家譜の評価
こんばんは。
>これ以上の議論は水掛け論になるので

私は本能寺の変の要因について、現段階で最も依拠すべき史料は、何度も言及した細川父子あての光秀自筆覚書であり、その内容を素直に解釈するところからスタートすべきというスタンスでして、編纂史料、それも江戸時代のかなり後に作られたであろう家譜の類を重視するのはかなり抵抗があるので、しつこい印象を持たれたかもしれません。
お気を悪くされたのならお詫びしますm(_ _)m

>『稲葉家譜』は(中略)同家中に秘蔵された孤立的な史料ではないかと思われます。

編纂史料の扱いは難しいです。
成立年代がいつかにもよるとは思いますが、軍記や逸話集の影響を受けていないと言いきれるのかどうか・・・。
『稲葉家譜』の史料的価値について先行研究があればいいのですが、管見の限りなさそうですし。

>でも、逆にいえば、この件で一次史料が出てくれば決定的な証拠になると思います。

まあ、ぶっちゃけそうなんですよね。
江戸時代の編纂史料では本能寺について実にいろいろな説が唱えられていたのですが、一次史料、同時代史料による裏付けがないから今まで切り捨てられていたわけで、何か見つかればそれで決まりになるという話なわけです。

>以上で、私の釈明はこれで終わりにします。

釈明なんて言われてしまうとちょっと心苦しいのですが、真摯で丁寧なレスをいただき、本に書かれている以外にもいろいろ検討し深く考えておられることがわかりましたし、非常に有益な議論であったと考えております。
拙い議論におつきあいいただき、本当にありがとうございました。

2007/04/19(Thu) 00:03 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
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