歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
この間、いただいたものです。
記して御礼申し上げます。

丹羽謙治さんより
①「<翻刻>鹿児島県立図書館蔵『武家不断枕』―都の錦の初期赤穂義士伝実録―」 『国語国文薩摩路』56号 2012年3月
②「鹿児島から見た都の錦 都の錦関連資料落穂拾い―『武家不断枕』の発見―」 『大坂春秋』145号 2012年新年号

丹羽謙治さんは鹿児島大学法文学部教授で、近世国文学がご専門。
以前、何度かお会いしたことがあり、論文の抜き刷りなど頂戴しました。
今回は、私も新聞連載で紹介した江戸中期の浮世草子作家、都の錦についてのご論考2点です。私が新聞連載するきっかけになったのが、昨年暮れ、鹿児島県立図書館で都の錦の作品『武家不断枕』写本が発見されたことで、丹羽さんがコメントされていたことで関心をもったといういきさつがあります。
ご論考①もそのとき発見された『武家不断枕』の翻刻と解説です。
ちなみに、『武家不断枕』は何と読むのだろうか? いつもルビが付けられずに苦労する。「ぶけふだんまくら」かなと思っているが、「ぶけふだんちん」の可能性もありか?

興味深かったのは②に紹介されていた白尾国柱『倭文麻環』(しずのおだまき)にある薩摩藩3代藩主島津綱貴の逸話。元禄15年(1702)12月15日、薩摩藩の芝藩邸が竣工したので、綱貴は高輪藩邸から芝藩邸に移ろうとして出発した。その途中、火事場装束姿の一団と出会う。それはほかでもない、吉良上野介の首級を挙げて高輪泉岳寺に向かう途中の赤穂浪士一行だった。浪士たちは道の傍らに控えて、綱貴一行の行列を見送った。
あとで綱貴は赤穂浪士一行だったと知り、感慨を洩らしたという。
「昔の通り上杉家に縁組したままで、上杉から父の敵なので加勢してほしいと依頼されていたら、彼らを一人も通さないでおいただろうか」
これはたまたま先日書いた「さつま人国誌」の記事と関連する。ここです。
綱貴は吉良上野介の長女鶴姫を(上杉綱憲の養女として)一時、継室に迎えていた(5年後に離縁)。鶴姫を離縁していなければ、上杉家に加勢したかもしれないというのである。
どこまで裏付けのとれる話かわからないが、『倭文麻環』にこの逸話が載っていたとは知らず、迂濶だった。やはり国文系の研究者はよくご存じだと感じ入った。


国津武士さんより
『アルキヘンロズカン』(私家版)

国津さんは歩く漫画家である。
この作品は漫画。タイトルはおそらく「歩き遍路図鑑」という意味だろう。
国津さんは四国のお遍路1200キロを実際に1カ月かけて踏破し、その経験をもとにこの漫画を描いた。お遍路を歩く人々の人間模様を描いたもの。
じつは、国津さんからは以前、島津の退き口を歩いて漫画にしたいので、ついては拙著『関ヶ原 島津退き口』のルート考証を参考にさせてほしいという依頼があった。
どうぞ使って下さいと返事したら、今月上旬、すでに退き口を踏破したという連絡をいただいた。義弘主従がたどった関ヶ原から泉州堺まで、義弘と同じ6日間をかけて踏破されたそうである。
こちらも隔週漫画誌に連載されるそうで楽しみである。

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【2012/04/14 09:57】 | 雑記
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