歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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先日の取材のうち、熊本編です。

熊本に来たのは久しぶり。
おそらく20年ぶりくらい。
かつての大河ドラマ「翔ぶが如く」の取材、その後の戦国島津氏の取材で訪れて以来。

今回のめあてのひとつとして、横井小楠関係と徳富蘇峰・蘆花兄弟の史跡を回りたいと思っていた。
空港からまず、小楠の居所があった沼山津の旧四時軒に行く。ここは小楠の資料館になっている。
小楠の資料でも、とくに暗殺場面が模型などを使ってリアルに作られていた。
四時軒

次に徳富兄弟の家に行く。のちに蘇峰が大江義塾を開いた場所。
当時の古い建物が残り、資料館が併設されていた。
大江義塾
蘆花こと健次郎が10歳足らずの頃、神風連の乱が起こり、健次郎は母とともに2階に上がり、熊本城方面が真っ赤に焼け、すぐ近くにあった熊本鎮台司令長官の種田政明少将が神風連に襲撃され、落命した騒動をつぶさに目撃している。有名な「ダンナハイケナイ、ワタシハテキズ」の電報の事件である。

資料館の館長にお会いしてずっと気になっていたことを尋ねた。
徳富兄弟の父、徳富一敬が手記を書いているという。一敬は小楠の門下で相聟でもある。
その手記のなかに小楠を訪ねた坂本龍馬のことが書かれており、龍馬が大久保利通を評価していたといった記述がある。私は『坂本龍馬全集』の年譜に引用されているのを見たのだが、一敬手記がどこに所蔵されているのか尋ねたところ、実在しないか、少なくとも見つかっていないのではないかという館長の返事だった。
同全集を編纂した宮地佐一郎氏はもう物故されているし、確認する術はないのだろうか?
明治時代の雑誌などに紹介記事があるのではないかと憶測しているのだが……。

その後、種田少将邸宅跡を撮影し、神風連の資料館に向かう。
隣接して桜山神社があり、神風連の戦死者・自刃者・刑死者の墓が左右にずらりと並んでいた。
神風連の思想的な指導者である林桜園の墓のほか、肥後勤王党の墓もあった。神風連は同党から分かれた団体である。同党の有力者だった宮部鼎蔵や河上彦斎の墓もあった。
神風連墓

熊本といえば、熊本城。
ここも当然久しぶりである。
築城者の銅像も載せておきます。
加藤清正

再建された模擬天守より、やはり西南戦争でも焼けなかった宇土櫓である。
城内の加藤神社から撮影したもの。
上部の建物より石垣の高さが倍近くあるその姿は勇壮そのもの。さすが加藤清正という感じ。
宇土櫓

天守閣近くの銀杏の木の横に、西南戦争時の鎮台司令長官だった谷干城少将の銅像があったと記憶していたが、なぜかない。
城内の案内板を見ると、近くの公園にあることがわかった。
熊本城では近年、本丸居館が再建された。私の記憶違いでなければ、そのときに移転したものか?
谷干城
谷は名前の干城のとおり、西郷軍の猛攻から熊本城を守りきった。

近年、再建された本丸御殿にも入ってみた。地下に通路があるという面白い造り。
内部は豪華で、金を多用した極彩色。とりわけ、奥に昭君之間があった。中国古代の悲劇の姫、王昭君にちなんだもの。一説によると、加藤清正が豊臣秀頼を迎えるために用意したというが本当か? ストロボを使用しない条件で撮影できた。
王昭君

模擬天守にも登る。最上階から西南方面にお椀を伏せたような山を見る。
花岡山である(写真奥中央)。現在は山頂に白い仏舎利塔が建っている。インドのネルー首相から贈られたもの。
花岡山

西南戦争の初期、西郷軍がここに四斤山砲や臼砲を据えて熊本城内を砲撃した。
それに先立ち、熊本城天守閣は炎上している。失火、放火の両説があったが、近年は鎮台側による放火説が有力。西郷軍の標的になるのを避けるためだったと思われる。
この山に登りたかったのは、西郷軍から熊本城がどのように見えたのかを確認するためだった。

小雨の中、花岡山に登ってみた。
西郷軍の砲座跡に石碑が立っていた。目立たない場所にあって探すのに苦労した。
この石碑の下に視界が開けた場所があり、遠く熊本城を望むことができた。
近年は高いビルが建っているが、それでも天守閣がはっきりと目撃できた。
当時はもっと目立ったに違いない。
参謀の児玉源太郎が西郷軍の標的にならないために天守閣を焼いたといわれるが、児玉の炯眼かもしれない。貴重な文化財が失われたが。
写真中央に天守閣が見える。
花岡山から見た熊本城

花岡山には官軍墓地がある。
ここには、神風連の乱で落命した種田少将のほか、県令の安岡亮介はじめ、鎮台の軍人たちの墓が建ち並んでいる。異色なのは、乃木希典の娘の墓もあった。乃木が熊本勤務時代に亡くなったらしい。
官軍墓地

なお、熊本築城のとき、加藤清正がこの山から石垣の石を切り出させたといわれる。山の中腹にか、兜石といわれる、清正の陣頭指揮で石を切り出した史跡があったそうだが、行きそびれてしまった。残念。


花岡山で初日の取材が終わる。
翌朝、どうしても訪れたかったのが立田山自然公園。
ここは熊本藩主細川家の菩提寺、泰勝寺の跡である。
開園の30分ほど前に着いた。先を急いでいたので入園は諦めようかと思ったが、ダメ元で清掃中の職員に掛け合う。すると、ちょうど受付の職員が到着。東京から来たと訴えると、開園前にもかかわらず、入園を許可していただいた。感謝感謝。
細川幽斎、忠興父子、幽斎夫人、そして細川ガラシャの墓がある。
写真は忠興の墓と、ガラシャの手水鉢。
細川忠興墓
ガラシャの手水鉢

熊本市内はほとんど目的を達して満足だった。
車を北上させ、一路、田原坂に向かう。
ここも20年ぶりである。
そのときは田原坂だけでなく、植木、木葉、南関、高瀬、山鹿、御船、人吉、日奈久など多くの戦跡や墓地を訪れた。
今回はそんな時間がないので、田原坂周辺だけ。
資料館を見学した。近年、田原坂周辺は発掘調査が進み、多くの遺跡や遺物が発見されている。
館内にはその一部が展示してあった。それとともに、展示物が以前よりはるかに充実していたのに驚いた。一般の入館者でもわかりやすい工夫がしてあった。
田原資料館

そして田原坂を下る。
田原坂は下から一の坂、二の坂、三の坂とある。
私たちは三の坂から逆にたどった。
いちばん当時の雰囲気が感じられるのは二の坂付近である。
道の両側は土手になっていて、西郷軍が土手に潜み、下から上ってくる政府軍(とくに乃木の第14聯隊)を迎撃したのだろうなと想像させる雰囲気がある。写真はその二の坂あたり。
田原坂

本当は田原坂から谷を隔てた二俣台地(政府軍の砲台跡)や激戦地として有名な半高山、篠原国幹が戦死した吉次峠など行きたかったが、時間の関係で断念せざるをえなかった。

その後、再び北上して太宰府をめざす。
それはまた次回に。

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【2012/04/30 00:54】 | 歴史紀行
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花岡山
ながお
桐野様
こんばんは。
花岡山は行った事はありませんが、様々な歴史のあるところですね。
徳富蘇峰ら熊本バンドがキリスト教を奉教することを宣言したところでもあります。彼らは後に同志社に移りますが、来年の大河ドラマとも話題がつながりそうですね。

熊本バンド
桐野作人
ながおさん

花岡山は熊本バンド発祥の地でしたね。
その一人である蘇峰は新島襄夫妻とともに東山に眠っています。
来年の大河に蘇峰も登場するのでしょうか?

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コメント
この記事へのコメント
花岡山
桐野様
こんばんは。
花岡山は行った事はありませんが、様々な歴史のあるところですね。
徳富蘇峰ら熊本バンドがキリスト教を奉教することを宣言したところでもあります。彼らは後に同志社に移りますが、来年の大河ドラマとも話題がつながりそうですね。
2012/05/01(Tue) 00:59 | URL  | ながお #-[ 編集]
熊本バンド
ながおさん

花岡山は熊本バンド発祥の地でしたね。
その一人である蘇峰は新島襄夫妻とともに東山に眠っています。
来年の大河に蘇峰も登場するのでしょうか?
2012/05/02(Wed) 08:07 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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2012/05/23(Wed) 00:48 |   |  #[ 編集]
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