歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
このところ、多くのご論著をいただいているのに多忙と怠惰のため、御礼もご紹介もままならず、申し訳ありません。
そのうちから、いただいた順にご紹介し、御礼に代えたいと思います。

大西泰正氏より
『「大老」宇喜多秀家とその家臣団』 岩田書院 2012年

宇喜多秀家論、宇喜多家中論を精力的に研究している大西さんから頂戴しました。
今回とくに興味深かったのは、「第二章 豪姫のことども」と「第三章 富川達安をめぐって」である。
前者は秀家夫人で秀吉の養女でありながら、史料が少ない豪姫について、ある程度体系的に叙述され、豪姫の輪郭が少し明らかになったように思える。
後者は戸川達安(あるいは逵安)でも知られ、宇喜多家中の有力者。関ヶ原合戦直前の宇喜多騒動により家中を離脱し、家康に庇護されている。富川らの離反の理由がどこにあったについて、豊臣政権による大名権力の強化に対する不満がその一因に挙げられていたのは、他の大名家でも見られることで納得できた。


天野忠幸氏より
「松永久秀を取り巻く人々と堺の文化」 『堺市博物館研究報告』31号 2012年3月

三好政権論を研究している天野さんから頂戴した。
近年、精力的に論著を発表されている。
今回は、三好長慶の側近で、織田政権の大名ととなった松永久秀の身内や周辺について、多くの知見が紹介されている。
これまで、久秀の母や妻については考えたこともなかったが、妻は公家の広橋国光の妹(保子)である。国光が在京しないで、奈良に在国している理由もこれでわかった。妻保子は長慶の本拠、芥川城に居住しており、来客から礼物を受け取っているなど、三好政権下でもそれなりの地位にあったことがわかる。
また母と妻の墓は堺・南宗寺内にあったという。久秀にとって、やはり堺は格別の場所であったことがわかった。

家来・被官については、竹内秀勝、楠正虎(のち長諳)、結城忠正、清原枝賢、柳生宗厳(石舟斎)など、学者や剣術家と多彩である。結城忠正と清原枝賢はキリシタンでもある。忠正は『フロイス日本史』にもよく登場する人物だが、柳生石舟斎の剣術指南もしていたというのは初めて知った。

また信長が久秀から得たり学んだものが多いという指摘も新鮮だった。
楠正虎を右筆として取り上げたほか、茶器・多聞山城・側近を奪い取り、さらに「思想」まで継承したというのは興味深い。

以上、いろいろ知見を得、学ばせてもらいました。
遅ればせながら、御礼申し上げます。

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【2012/06/16 20:59】 | 新刊
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2012/06/18(Mon) 04:48 |   |  #[ 編集]
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