歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第241回
-一騎打ちの後、絶命-

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

毎月第2月曜は通常、休刊日なのですが、今回は鹿児島県知事選の報道と重なり発刊日となりました。
今回は前回の続きです。龍造寺隆信を討った川上忠堅は2年後の筑紫広門攻めで敵将筑紫春門との一騎打ちの末、絶命してしまいます。
先々月、初めて両者の一騎打ちの伝承地と忠堅の墓を訪れることができました。その取材ができたので、今回記事が書けました。Y口さんの協力のおかげです。

記事を書くにあたり、いくつかの勘違いや疑問に気づきました。
まず勘違いから。一騎打ちがあったとされる筑紫広門方の勝尾城や鷹取城。私はてっきり筑後国だと思っていたのですが、実際は鳥栖市、つまり肥前国(東端ですが)になるんですね。筑紫の名字に幻惑されました(笑)。

次に疑問①ですが、『旧記雑録後編』をはじめ、『島津国史』『西藩野史』など島津関係の史料を見ても、一騎打ちがあった場所が支城の鷹取城なのか、本城の勝尾城なのか、情報が錯綜していてよくわかりませんでした。

疑問②。両雄の一騎打ち、どちらが勝ったかですが、相打ちというのが通説ですけど、どうもそんな感じじゃないですね。『本藩人物誌』の忠堅の項にも、忠堅が春門を斬ったけど(部位不明)、忠堅も春門から右腕を斬られるという痛手を受けています。
それだけなら相打ちかもしれませんが、忠堅の与力、鹿屋三左衛門が退却する春門を追って討ち取っています。忠堅自身は追い打ちをかけるだけの体力がなかったようです。疲労と右腕の負傷のせいでしょう。それから数時間後に忠堅は絶命していますから、春門に斬られた時点で、忠堅は瀕死の重傷だったと思われます。春門が逃げおおせたら、春門の勝ちという裁定になったことでしょう。相打ち説にはやや疑問ありです。

疑問③。これがもっとも大事ですが、忠堅が龍造寺隆信を討ったのち、家中から嫉視とともに冷ややかな視線を浴びて追いつめられていたのかという問題。
私は以前何かを読んだ記憶から、そうだろうと思い込んでいたのですが、島津方の史料からそれらしき記述を見出せませんでした。
逆に、龍造寺方の「基肆養父御領中略記」なる史料に、島津義久が討つべき鍋島弾正(直茂か)を討たず、生け捕りにすべき隆信を殺したのは不届きとして蟄居されられ、その後牢人して、この戦いに死に場所を求めていた」とあるそうな。未見だが、いかにも後世に創作された内容である。
結局、忠堅が追いつめられていたかどうかは裏がとれずじまいだった。その点で記事が少し竜頭蛇尾になってしまったのが反省材料。何かで見た覚えがあるのだが……。

ほかに余談だが、忠堅の供養墓を建てたのが、なぜか侯爵鍋島家であること。建立は1929年(昭和4)と新しい。
この合戦に無関係なのに、また隆信を討った忠堅は鍋島家にとっても仇筋なのになぜなのだろうか。
うがった一説によれば、忠堅が隆信を討ってくれたために鍋島家は大名になれたので、恩義ある忠堅の供養をしたというもの。どうなんでしょうね? 写真あげときます。
川上忠堅墓案内板鍋島家供養碑

記事には紹介できなかったが、一騎打ち伝承地にも忠堅と春門の供養碑があります。左が忠堅、右が春門(手前左の円形石の左方)。
川上忠堅供養碑筑紫春門供養碑

鷹取城や勝尾城に登れたらと思ったが、時間がなかったのと、以下のような山だったので断念。
勝尾城遠景

島津軍は筑紫広門攻めのあと、有名な高橋紹運の岩屋城を攻めます。せっかくなので、次回は岩屋城攻めを書きます。島津軍の難戦、苦戦でした。

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【2012/07/09 18:32】 | さつま人国誌
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