歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第242回
―家中不一致のまま強行―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。
なお、サイトのタイトルが表題と違っていますが、こちらが正しいです。

今回は前回からの流れで、岩屋城の攻防です。
高橋紹運の強靱な籠城戦として知られ、島津軍は落城させたものの、じつに3000人の損害を出すという苦戦でもありました。
今回はまず、島津軍が岩屋城を攻めるまでのいきさつを中心に述べました。
じつは島津家中では、主戦派と避戦派という大きな意見対立があり、しかも、一門の四兄弟が対立していました。そのいきさつは簡単に記事に書きました。
紙幅の関係で書けなかったこともあります。それは、日向守護代の島津家久を中心とした日向衆による独断での豊後侵攻計画です。家久は長兄の太守義久が豊後侵攻に消極的なのを見て取るや、独断で豊後に侵攻しようとしました.その際、同じ主戦派の兄義弘にも同調を求めましたが、義弘が色よい返事をしなかったため、この計画は頓挫したと思われます。のちに家久の死には大きな謎が残りますが、それを予感させるような出来事だったかもしれません。

記事にも書いたように、日向衆が筑前に未着のため、岩屋城攻めははじめ、日向衆抜きで開始されました。
島津方は多大な犠牲者を出して勝利したわけですが、結局、その後、豊後侵攻へと再度方針転換を図ることになります。どうせ豊後侵攻を始めるなら、家久の主張どおり半年早く始めていたら、局面は島津方に有利に展開した可能性があります。

記事には載せられませんでしたが、岩屋城攻めの島津軍の本陣となった観世音寺の写真を載せておきます。
ここには、島津忠長や伊集院忠棟が在陣していたと思われます。太宰府天満宮にほど近い場所です。
観世音寺

次回は、「嗚呼壮烈岩屋城址」という石碑の刻文のとおり、激戦の様子を書く予定です。

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【2012/07/16 17:50】 | さつま人国誌
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