歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第243回
―敵の奮戦に惨憺たる勝利―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続きで、岩屋城の攻防を書きました。
もっとも、島津方からの視点のためと紙幅の関係で、城方の奮戦の様子はあまり詳しく書いていません。

記事以外でもいくつか書きたかったことがあります。最後の総攻撃に移る前の出来事2つです。
ひとつは、島津方が「下栫」(惣構のようなものか)を破り、本丸など主要曲輪だけ残った時点で、城方に対して降伏勧告していることです。このとき、高橋紹運は降伏するが、城をそのままもたせてくれという条件を出しています。当然、島津方はそれでは降伏にならないと判断して拒絶しました。この開城交渉はあまり知られていないと思います。
もうひとつは、城方が本丸のみとなったとき、島津方の総大将島津忠長が単騎、岩屋城に近づいて再び降伏勧告しました。そのとき、城方から城門を開けて打って出た武者がおり、忠長めがけて斬りかかりました。忠長は手鑓で応戦しましたが、強い打撃のため、手鑓をへし折られます。
総大将危うしというとき、忠長の被官永長長助が合力し、二人で合力して敵を討ち取るという一幕もありました。ちなみに、主人を助けた永長も戦死したと思われます。城方も敵の総大将を討ち取れるチャンスだと思ったのでしょう。最後まで敢闘精神を捨てていなかったのですね。

史料の問題として、高橋紹運の伝記「高橋記」をどの程度信用してよいかという点がありましたが、ほかに代替できる史料もなく一部活用しました。

写真をいくつか載せておきます。
岩屋城の石碑は有名ですが、ここは格好のハイキングコースでもあるようです。私たちが登ったときも小学生の一団が訪れていました。
岩屋城石碑

石碑の裏には建立者と石匠の名前が刻んでありました。1955年建立ですから、50数年前に立てられたのですね。石匠は太田三次郎という人です。この石碑は柳川立花家の関係者が立てたとされていますが、そうなのでしょうか?
石碑裏

岩屋城の東には宝満山城があり、紹運の二男高橋統増がこもっていました。宝満山は岩屋城よりかなり高い山ですね。中央奥の山で頂上付近に雲がかかっているのが宝満山です。城はどこあたりに築かれたのでしょうか?
宝満山

次回は岩屋城攻防の続きとして、立花宗茂の立花山城の攻防を書く予定です。宗茂は2回に分けて書くつもりです。

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【2012/07/23 17:34】 | さつま人国誌
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2012/07/24(Tue) 02:21 |   |  #[ 編集]
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