歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第245回
―戦友意識か、親密な両雄―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右リンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

このテーマでは上・下で書く予定でしたが、どうしても2回では収まりきれず、上・中・下の3回に分けて書くことにしました。
今回は朝鮮陣、庄内の乱、関ヶ原合戦(大津城攻防)について書きました。
3回に分けても、じつはまだ分量が足らず、朝鮮陣、慶長の役最終盤の順天城救援から始まった露梁津海戦については触れることができませんでした。
このとき、宗茂と島津義弘・忠恒父子は一緒に小西行長などを救出しています。このことも含めて朝鮮半島でともに苦戦したことが戦友意識を培ったのではないかと思います。

その親密な関係がよく表れたのが忠恒の伊集院幸侃手打ち事件と庄内の乱です。
宗茂は一貫して忠恒の味方をしています。それは朝鮮陣での戦友意識のなせる業かもしれません。もっとも、朝鮮陣には庄内の乱を起こした伊集院忠真も出征しています。
となりますと、やはり、筆頭老中とはいえ、被官が主人を上回る権勢をもつのは許さないという大名領主特有の身分意識を共有していたのでしょうか。

もうひとつ、この一件の評価について、高雄に謹慎した忠恒に対して、前田・増田・長束の三奉行が談合し、その指示を受けてか、宗茂や小西行長、寺沢正成が救出・護送していることから、徳川家康が島津氏を味方につけるために忠恒の謹慎解除を命じたという従来の説はあたらず、三成など反家康の奉行衆に主導権があったという新説もあるが、どうでしょうか。
というのは、その後、庄内の乱が勃発したとき、宗茂は義弘・忠恒に味方したばかりか、みずから出陣して加勢することまで申し出ていますが、もっとも重要なのは、宗茂があくまで家康の指示に従うよう義弘・忠恒に勧めている点です。宗茂は家康を中心とする豊臣「公儀」の意向や命令に従おうとしているのです。
また三奉行も三成と親しいとはいえ、三成寄りだと判断するよりも、豊臣「公儀」としての判断だと考えたほうがいいのではないか。その証拠に、三成は忠恒の暴走に激怒して処罰を匂わせており、三奉行とは態度が異なっています。

宗茂・行長・正成と義弘・忠恒父子の結束を、反家康的立場としてくくるより、朝鮮陣での戦友意識の延長線として、あくまで九州大名同士という地域的な結合により、秀吉死後の豊臣政権の混乱を乗り切っていこうという行動ではないでしょうか。
その点では、関ヶ原合戦での東西両軍の色分けなど、多くはその時点での情勢や成り行きに規定された便宜的、応急的なものだったように思われます。
宗茂の西軍参加も家康憎しという感情があったとはとても思えません。あえてその行動基準を求めるとすれば、毛利輝元への与力意識によるものではないでしょうのか。

宗茂と義弘との関係で注目すべきは、記事の最後にも書きましたが、関ヶ原本戦前に美濃垂井で同陣していたという説です。中野等氏『立花宗茂』(人物叢書)にも少し紹介してあったので、調べてみると、出典は『伊達家文書』であることがわかりました。これは井伊直政が本多正信などに宛てた書状の写し。なぜ伊達家に伝わったかわかりませんが、伊達家の京都留守居あたりが写し取ったものか。
この直政書状は伝聞情報だからどこまで事実か確証がありませんが、宗茂は当初、伊勢口へ出陣することになっていたはずです。それが何らかの事情があって美濃方面に転出したものでしょうか。そして京極高次の変心があったために、急遽引き返して大津城攻めにあたったのでしょうか。この点はもう少し他の史料で詰められたらと思っています。
以上の点は、分量の関係と趣旨からはずれるため記事には書けませんでしたので、補足しておきます。

次回は宗茂の大坂城退去と義弘との感動的な再会を書く予定です。

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【2012/08/06 18:39】 | さつま人国誌
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