歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第246回
―周防大島で再会を喜ぶ―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をご覧下さい。

今回は宗茂と義弘の友情の最終回です。
大名同士の友情というのは、政治的な思惑もからみ、なかなか成立しがたいものです。
関ヶ原合戦における石田三成と大谷吉継の関係も友情なのかどうかは一次史料では確認できないです。
あと、加藤清正と浅野幸長などは比較的懇意ですね。

さて、宗茂と義弘ですが、これはどちらかといえば、宗茂が義弘により好意を抱いている感じですね。
関ヶ原合戦で大坂方の敗戦後、義弘討死の噂が流れたとき、宗茂は島津忠恒夫人亀寿を国許まで送り届けたいと申し出、その細かい打ち合わせをしているほどです。宗茂も義弘が討死したと思い、島津家に友情の証しを示したかったのでしょう。

宗茂が大津城開城ののち、大坂に向かい、毛利輝元に籠城を進言したというのは有名な話ですが、一次史料では確認できないのが難です。
宗茂の伝記「立斎旧聞記」には、その間のいきさつが詳しく書かれています。宗茂は大津開城ののち、大坂に向かう前に京都に立ち寄っています。そのとき、三条寺町に布陣して、木下肥後守(小早川秀秋の実父家定)に使者を送り、大坂下向に同道するよう要求します。すると、家定は周章狼狽してしてしまいます。
このとき、家定は姉にあたる北政所とともに、公家の大炊御門家にいたそうです。宗茂の使者の口上を聞いた北政所もうろたえます。

「北政所、此の使いを聞き玉ひ、以ての外に仰天まし/\、かちはだし(歩行裸足)の躰にて禁中へ逃げこもり玉へば、それより京中騒ぎ立」

北政所が東軍寄り、家康寄りだったという通説とは食い違う記事です。もっとも、北政所は宗茂が洛中に布陣したのに驚き、さらに宗茂が無理やり大坂城に連行していくのではないかと恐れ、大坂城で担ぎ上げられるのはゴメンとばかりに禁裏御所に避難したとも考えられます。そうだとすれば、必ずしも西軍寄り、大坂寄りとは言い切れないかもしれません。
逆にいえば、宗茂は北政所を大坂城に入れて旗印に戴こうとしたのかもしれませんね。そうだとしたら、まことに興味深いです。
北政所が禁裏御所に避難したという記事は、公家の西洞院時慶の日記『時慶記』の記事とも合致します。同記には、北政所は准后御方(勧修寺晴子、後陽成天皇の生母)の所に避難したとあります。ですから、「立斎旧聞記」の記事は案外信用できそうです。
以上は、紙数の関係で記事には書けませんでしたので、補足しておきます。

その後、宗茂は大坂に向かうことになります。そして、今回のサブタイトルにもあった周防大島での再会ということになります。二人は西宮沖からともに船団を組んで出航しますが、その時点では再会していなかった感じです。ようやく虎口を脱し、国許が近くなった周防大島で両雄会見となった模様です。

周防大島はかつて屋代島と呼ばれていました。こちらのほうが通りがいいかもしれません。
非常に大きな島ですが、その東北端に日向泊という港があります。ここに停泊しているときに会見しています。
現在も非常に小さな港です。おそらく風待ち、潮待ちの港だったのでしょう。
今回、地元自治体の商工観光課の担当者がわざわざ現地まで写真撮影に行かれ、そのデータを送っていただきました。まことに有難いことです。現地の方もこの逸話はご存じなかったようです。
「惟新公関原御合戦記」にわずかに記事があるだけなので当然かも知れません。
せっかくなので、掲載した以外の写真も載せておきます。港の外側と俯瞰の写真です。
日向泊外側日向泊俯瞰

ほかにも大きなパノラマの航空写真もいただきましたが、あまりに容量が大きいので載せきれません。

なお、この再会のとき、宗茂が義弘に「善悪ともに御下に参る儀」を誓約しているのは、あまり知られていないと思います。宗茂は九州の西軍方で、義弘を盟主に仰いで結束しようとしたのかもしれません。もっとも、九州情勢は西軍方に圧倒的に不利でしたが。

次回の予定ですが、8月21日(旧暦)が生麦事件150年であることから、同事件を何回かに分けて書く予定です。

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【2012/08/13 18:02】 | さつま人国誌
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ばんない
こんばんは。
世間で知られている巷説以外の話も書いてあり、興味深く読みました。

>亀寿
ああ、立花宗茂とのデートのチャンスが(冗談)
もしかしたら柳川経由で帰国していたのかも知れませんね。

本文
>宗茂と義弘の船は西宮沖を発し、瀬戸内を西に進んだ。ともに五十余艘〔そう〕の船団だった。
義弘も50隻ぐらい船を調達できたという事なのでしょうか。「惟新公関原御合戦記」では黒田官兵衛軍に襲撃されたとき台所船2隻と義弘の船1隻で計3隻と認識していたのですが…。

>北政所
最初避難した先が大炊御門家、次避難したところが勧修寺晴子というのは興味深いです。木下家定ですか?…まあ予想通りの行動ですな(爆)

船団
桐野作人
ばんないさん

船団の数ですが、「惟新公関原御合戦記」にある記述に従っています。
立花勢は2000人以上の軍勢ですから、50艘でもおかしくないですが、島津勢はせいぜい100人程度ではなかったかと思われます。その根拠は、富隈に到着した義弘主従が30数名、豊後沖で戦死した人数が30数名、捕虜が10名ほど。ただ、戦死数には軽輩身分が含まれていない可能性あり、実数はもう少し多いかと。
島津勢の50艘には注記しようと思いながら、失念しました(爆)。
ただ、3艘よりは多いと思っています。
豊後沖で黒田水軍に捕捉されたのが3艘で、その中には義弘御座船は含まれていませんから、少なくとも4艘以上あったと思います。
捕捉された3艘のなかに義弘夫人宰相殿の御座船があったと思われ、残りの2艘がその御座船の退避を援護しつつ、海戦に及んだものと考えています。

夫婦同船せず
ばんない
即答ありがとうございました。50隻よりは少ないが、4隻は越えているという事ですね。

>捕捉された3艘のなかに義弘夫人宰相殿の御座船があったと思われ、
これ、不思議に思ったのですが、夫婦なのに同じ船じゃなかったのですね。この時代、いろいろと危険が伴うので、どちらかの船がアウトになってもどちらかが助かるようにという考えによる物でしょうか。

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コメント
この記事へのコメント
こんばんは。
世間で知られている巷説以外の話も書いてあり、興味深く読みました。

>亀寿
ああ、立花宗茂とのデートのチャンスが(冗談)
もしかしたら柳川経由で帰国していたのかも知れませんね。

本文
>宗茂と義弘の船は西宮沖を発し、瀬戸内を西に進んだ。ともに五十余艘〔そう〕の船団だった。
義弘も50隻ぐらい船を調達できたという事なのでしょうか。「惟新公関原御合戦記」では黒田官兵衛軍に襲撃されたとき台所船2隻と義弘の船1隻で計3隻と認識していたのですが…。

>北政所
最初避難した先が大炊御門家、次避難したところが勧修寺晴子というのは興味深いです。木下家定ですか?…まあ予想通りの行動ですな(爆)
2012/08/14(Tue) 00:01 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
船団
ばんないさん

船団の数ですが、「惟新公関原御合戦記」にある記述に従っています。
立花勢は2000人以上の軍勢ですから、50艘でもおかしくないですが、島津勢はせいぜい100人程度ではなかったかと思われます。その根拠は、富隈に到着した義弘主従が30数名、豊後沖で戦死した人数が30数名、捕虜が10名ほど。ただ、戦死数には軽輩身分が含まれていない可能性あり、実数はもう少し多いかと。
島津勢の50艘には注記しようと思いながら、失念しました(爆)。
ただ、3艘よりは多いと思っています。
豊後沖で黒田水軍に捕捉されたのが3艘で、その中には義弘御座船は含まれていませんから、少なくとも4艘以上あったと思います。
捕捉された3艘のなかに義弘夫人宰相殿の御座船があったと思われ、残りの2艘がその御座船の退避を援護しつつ、海戦に及んだものと考えています。
2012/08/14(Tue) 00:38 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
夫婦同船せず
即答ありがとうございました。50隻よりは少ないが、4隻は越えているという事ですね。

>捕捉された3艘のなかに義弘夫人宰相殿の御座船があったと思われ、
これ、不思議に思ったのですが、夫婦なのに同じ船じゃなかったのですね。この時代、いろいろと危険が伴うので、どちらかの船がアウトになってもどちらかが助かるようにという考えによる物でしょうか。
2012/08/15(Wed) 00:40 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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