歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第247回
―東海道での不幸な惨劇―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

タイトルのとおり、今年は文久2年(1862)の寺田屋事件や生麦事件からちょうど150年になります。
同年8月21日、新暦だと9月14日が生麦事件が起きた日です。
いずれも島津久光の率兵上京に伴う副産物です。副産物という言葉では軽いくらい大きな事件であり、さらに翌3年7月の薩英戦争まで惹起してしまいます。

先日、友人たちと生麦事件の現場となった東海道旧生麦村や犠牲になったリチャードソンの墓がある横浜外国人墓地に出かけました。
もっとも、生麦にある生麦事件参考館の館長、浅海武夫さんからお話をうかがったが、話が長すぎて外が暗くなってしまい、肝心の写真撮影ができなかったため、先週末ふたたび出かけて撮影した。今回はそのときの写真を載せています。

生麦事件は不幸な事件でした。久光主従も好んで外国人殺傷をしたわけではありません。しかし、大名行列(厳密にいえば久光は大名ではありませんが)に(不可抗力とはいえ)外国人が乱入してくれば、国内法と大名としての誇りから、これを撃退する行動に出るのは当然です。
一方、リチャードソンなど英国人4人は上海や香港から来日したばかりの2人を含めて、大名行列への対処のしかたなどに無知で、いわば、郷に入りては郷に従えという慣習を軽視していたというしかなく、それが災難に直結しました。幕府も各国公使館を介して、外国人に国内法の遵守を申し入れていたはずですが、行き渡っていなかったかもしれません。

リチャードソンは死亡、他の2人の男性も重傷という結果は悲惨でしたが、翌年、薩摩藩も薩英戦争で大きな代価を支払わされる結果となりました。

記事に載せられなかった写真を2点載せておきます。
左は、リチャードソンが奈良原喜左衛門に斬りつけられた場所。左手の垣根に事件の案内板あり。当時は現在の道幅より狭かったと思われます。右はいったん馬で逃走した彼が落馬して海江田信義にとどめを刺されて落命した場所です。慰霊碑は明治16年(1883)、鶴見の黒川荘三が建立、撰文は中村敬宇。
生麦現場慰霊碑

次回は続きです。(中)になるか(下)になるか思案中。

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【2012/08/20 18:43】 | さつま人国誌
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