歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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検証本能寺の変

本日、谷口克広氏から表題の本を恵贈された。多謝。
まだ版元の新刊案内も詳しくないので、表紙写真も載せておきます。
版元・定価などのデータはここに

本書の特徴はいくつかある。

1,まず使える史料とそうでない史料をちゃんと峻別する必要があることを強調している。史料批判の重要性という当たり前のことだが、信用できない史料をもとに、いかに俗説がこしらえられるか、その弊害を説いている。

2,江戸時代からの先行研究を網羅的に俎上に上げていること。これを見たら、いわゆる俗説の成立が、江戸時代や明治時代にすでに原型があることがわかる。

3,黒幕説の徹底批判
 とくに朝廷黒幕説と足利義昭黒幕説が成り立たないことを、詳細に論じて葬り去っている。まことに小気味よい。
 たとえば、朝廷黒幕説に対しては、
「一口に言うと、朝廷関与(黒幕)説は、先入観に導かれて史料を曲解するところから生まれた説といえるだろう」

足利義昭黒幕説に対しても、「(鞆幕府の)その勢力や権威を光秀が信じていたとしたら、もっと義昭を表面に出して味方を募ったはずではないだろうか」と拙著と同様の立場であり、光秀が義昭を「謀反当初から担ごうという意図はなかっただろう」とも指摘している。

 南欧勢力黒幕説に対しても、実に詳しい批判がある。そして結論として、
「そもそも、計画通り信長を討たせ、さらに秀吉を動かして光秀も討たせるなどと、まるで将棋を指すようである。金力もない、兵力もない、日本国内での仲間も限られているイエズス会が、卓上で駒を動かすように日本の政治の中枢を操るなど、できるはずがないであろう」

そして、黒幕説全般に共通する点として、
「結論のほうがはじめにあって、史料をその結論に合わせて曲解してしまう、ということである」と手厳しい。
黒幕論者たちはこの批判にどのように反論するのだろうか。

そして谷口氏の結論は、諸説のなかから成立しないものを順に消去した結果、残ったのが、次の3点だという。

①天正10年5月の信長による光秀足蹴事件
②斎藤利三の一件(稲葉家との相論)
③四国対策をめぐる対立


しかも、この3点はつながっていると、谷口氏は結論している。
視点や方法論が異なりながら、結論はほとんど拙著と同じものになっている。

ほかにも、拙著では触れなかった「本願寺教如黒幕説」をはじめとした、種々の黒幕説をすべて撫で斬りにしている。

とくに、谷口説で興味深いのは、光秀67歳説を積極的に主張していることである。これは谷口氏の年来の持説であり、『当代記』に基づいている。55歳の通説が俗書の『明智軍記』にある光秀辞世(あのような死に方をしたのに辞世があったとは考えにくい)を根拠にしていることより、はるかに信頼できる。
付け加えれば、拙著では紙数の関係で書かなかったが、光秀は目が相当悪かったのは確実である(いくつか史料あり)。これも67歳説を補強しているかもしれない。

拙著より相当読みやすい本に仕上がっている(笑)。拙著とともに読み比べられることをお勧めしたい。

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【2007/04/21 00:11】 | 信長
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旬な話題
はじめまして^^

私の芸能サイトで
こちらの記事を紹介させて頂きましたので
ご連絡させて頂きました。

紹介記事は
http://newsoftoday.blog89.fc2.com/blog-entry-935.html
です。

これからもよろしくお願いいたします^^


お聞き流しを
Tm.
『検証 本能寺の変』早速、購入しました。

確かに読みやすい。非常に読みやすい。
それに比べると『だれが信長を殺したのか』の難しいこと。

願わくば新書にて刊行して頂きたかったです。

操作ミスですか
桐野
Tm.さん、おはようございます。

管理人のみ閲覧と同じ趣旨のコメントをいただいておりますが、もしかして操作ミスで二回アップされたでしょうか? そうならご愛敬ですが(笑)。

谷口氏の著書、読みやすいというのはその通りだと思いますが、もともと趣旨や方法論が異なるので致し方ありません。どちらにもそれなりの長所・欠点があろうかと思います。

申し訳ありません
Tm.
>もしかして操作ミスで二回アップされたでしょうか?

その通りです。出来れば<管理人のみ>の方を削除してください(謝)


>もともと趣旨や方法論が異なるので致し方ありません。

ただ、『だれが』が難しいと言ったのは良い意味でですので御気を悪くなさらないでください(笑)
その上で『検証』は、どうしても鈴木、藤本両氏のご著書と比較されるのは致し方ないのではないでしょうか。

後発の強みはありますが、それ以上の注目すべき新知見(「福屋文書」のような)もあるわけではなく、『当代記』における「光秀67歳・説」についても、『明智軍記』の55歳と言う年齢は疑わしいものの、当時、信長ですら49歳と初老に差し掛かっており、ましてや天正4年に生死をさ迷う大病を患っている光秀は実年齢以上に老け込んでいたと考えられ、それを積極的に肯定すべき根拠はないと存じます。

その上で、谷口氏や堀氏にも共通することですが、桐野先生はかつてご自身が「(朝廷)黒幕説」を叢生させてしまったという反省から、公武の対立を必要以上に矮小化されてはおられないでしょうか。

歴読2003年5月号の『信長「腹立」の真相』興味深く拝見いたしました。
同事件が組織としての公武の関係に深刻な影響を与えたとは考えておりませんが、少なくとも信長と誠仁親王の間にはある種のわだかまりを生じさせたに相違なく、その前後の出来事を体系的に見返すと、光秀の謀叛の背景(決断)にも通じるものがあるのではないかと思われます。


それと「妻木」ですが、『兼見』では天正6年6月14日の記事にも見られますが、ただ「妻木」とあるだけで個人を特定するような記述がなされていません(※信長在京)。翌7年の記事にある光秀姉妹の「妻木」とは別人なのか、さらに翌8年1月の記事の「妻木」とはどうかを合わせ考えるに、当時「妻木」と記すだけで分かる人物がいたのではないでしょうか。

とくに天正6年の記事で兼見は、「妻木」に「臺之物、肴色ゝ・双瓶」を使者を立てて贈っているのに対し、猪子高就には「角豆一折」を持参しており、その違いには興味深いものがあります。

公武関係について
桐野
Tm. さん、なかなか興味深いご意見有難うございます。

>桐野先生はかつてご自身が「(朝廷)黒幕説」を叢生させてしまったという反省から、公武の対立を必要以上に矮小化されてはおられないでしょうか。

それほどでもないと思っておりますが……。
もともと、公家と武家は成り立ちが異なり異質です。価値観がかなり違いますね。
したがって、その違いからくる軋轢は、信長期に限らず公武関係にはつきものです。それは鎌倉時代から幕末まで一貫してそうではないでしょうか。信長だけを特別に考える必要はないと思います。

歴史読本に掲載した拙稿もご覧になっているようで感心しておりますが、この一件についても、江戸時代初期の紫衣事件や和子入内事件とくらべると大したことはありません。
和子入内のほうが当時の公武関係にとって重大で、とくに天皇家にとっては青天の霹靂ともいうべき徳川家の横暴に見えたはずですが、当該期に公武対立だとか、徳川将軍暗殺計画があり、陰の黒幕は朝廷だったなどという説はありませんね。
逆説的にいえば、和子入内でさえ受け容れた朝廷ですから、典侍冷泉氏の一件など受忍の範囲内でしょう。信長期の公武関係は非和解的・非妥協的な対立では決してなかったのではないでしょうか。
谷口さんもご指摘のように、信長だけ特別視している傾向がありますね。

>歴読2003年5月号の『信長「腹立」の真相』興味深く拝見いたしました。
同事件が組織としての公武の関係に深刻な影響を与えたとは考えておりませんが、少なくとも信長と誠仁親王の間にはある種のわだかまりを生じさせたに相違なく、その前後の出来事を体系的に見返すと、光秀の謀叛の背景(決断)にも通じるものがあるのではないかと思われます。

この一件は、発案者は信長ではないのではないか、むしろ信長はある公家集団の計画に乗せられただけではないかと、最近思っております。
その公家集団というのは、拙稿にも示唆されていますが、信長死後、正親町天皇の勅勘を蒙っています。その理由は通常、別の一因があげられていますが、私は違うと思っています。それが原因なら、複数の公家が勅勘になるはずがないからです。

誠仁親王がこの件で信長に意趣を含んだというのがまったくないとはいいませんが、それよりも、二条御所の譲渡や即位の約束という信長からの恩恵のほうがくらべものにならないくらい、はるかに大きかったのではないでしょうか。


『兼見』にはたしかに「妻木」がよく出てきますね。
この「妻木」は「光秀妹」ではなく、その兄か父の立場にあるような、光秀の側近として重きをなしている人物ではないかと思います。
猪子高就との音信の軽重に注目されたのはなかなかだと思いますが、これが妻木と猪子の身分差によるものか、単なるこのときの事情(妻木に多く贈る必要があった)によるものかはわかりません。それでも、信長側近より多いのはたしかに面白いですね。






上意トセリアイテ
Tm.
桐野先生、お忙しいなかでのご返答ありがとうございます。

自分が「腹立事件」において注目している出来事の一つに、「安土山図屏風」の件があります。
先の歴読のご論稿では禁裏に献上されたと述べられていますが、実際には正親町天皇の「勅書=賛」を得るべく高覧に供したものであり、後にヴァリニャーノ(天正遣欧少年使節団)によってバチカンに献納されています。
問題は、立花京子氏の言われるように当初から後者を前提に屏風が描かれ、そして天皇の賛が要求されたのかどうかということですが、まずそれはないでしょう。

ではなぜ信長は天皇に賛を要求をしたのかということですが、単なる自慢の為であったとするには、当時の史料において話題に上っていないことに疑問があります。
自分には「腹立事件」と「安土山図屏風の一件」に、永禄12年の将軍義昭と信長の「競合い事件」を思わせるものがあり、後者における「女房奉書」に当る物が前者での「勅書=賛」であり、思わぬ抵抗を見せた誠仁親王に対する信長の牽制ではなかったかとみています。

>この一件は、発案者は信長ではないのではないか、むしろ
 信長はある公家集団の計画に乗せられただけではないかと
 思っております。

たとえそうであったとしても、信長はもはや親王が自分の意に逆らうとは考えていなかったのではないでしょうか。詳細を失念しましたが、親王の信長に対する反感を天皇がたしなめるような出来事も記録にあったやに思います。
親王は「変」の折に「切腹すべきか」と申し出たほどの人物ですから、事あるごとに周囲に不満を漏らすようなこともあったのではないでしょうか。

義昭の時とは立場が違いますが、光秀も兼見や長岡(細川)藤孝らからそうした状況を伝え聞き思うところがあり、謀叛を決断する(自身を納得させる)理由としたのではないでしょうか。

『川角太閤記』と『別本川角太閤記』
Tm.
話しは代わりますが、是非とも桐野先生にお教え頂きたいことがあります。

それは『川角太閤記』と『別本川角太閤記』の関係及び巷間への流布についてです。
『検証』では両者は「まったくの別の本である。」とあるのみで詳しい説明がありません。
また、他でもそれに対する説明はないと存じます。
なぜそのことに拘るのかと言えば、後者に収録されている小早川隆景宛ての光秀の書状と同じものが別の史料にも収録されているからです。

『検証』では、『覚上公御書集』の「河隅忠清発給文書」が従来知られている以上に多くの上杉景勝関係の史料に収録されていることの指摘がありましたが、「小早川隆景宛書状」については旧知のことなのでしょうか。

自分の不勉強かも知れませんが、上記のことお教え願えれば幸いに存じます。

別本川角太閤記
桐野
Tm.さん、どうも。

『別本川角太閤記』ですが、私は『大日本史料』第11編之1(秀吉時代)に収録されているものしか知りません。それも、ほんの一部、ほとんど小早川隆景宛て光秀書状だけで前後の文脈はわかりませんね。
大日本史料に収録されているのですから、東大史料編纂所に原典なり写本なりがあるのかと思って検索してみましたが、少なくともデータベースではヒットしませんね。

常識的に考えると、江戸時代初期(元和年間か)に成立したとされる『川角太閤記』(現存しているのは幕末期の写本ですが)の一変種といいますか、写本の一種で、その成立の過程で、創作が加えられたということでしょうかね。やはり小早川隆景宛ての光秀書状は偽文書だと思いますね。

あと、『国書総目録』に何か載っているかどうかですね。私は持っていないのでわかりません。

なお、同じ隆景宛て光秀書状が別の史料に収録されているとのことですが、それはどんな史料でしょうか? 不勉強なもので、ご教示いただけると幸いです。

同じ文書が別の史料にも収録されていることはよくあることで、それはこのケースでも同じでしょう。その別の史料が一次史料なら話は別ですが、おそらく編纂史料、それも比較的新しいものではないでしょうか。

追加情報
桐野
Tm.さん

先ほどのコメントはあまりに調査不足でしたので、少し追加情報を。

桑田忠親『明智光秀』(講談社文庫)によれば、『別本川角太閤記』は内閣文庫所蔵とありました。

内閣文庫は現在、国立公文書館ですので、そのサイトの以下のURLにアクセスして下さい。

http://www.archives.go.jp/owning/index.html

その検索欄に「川角太閤記」というキーワードを入力すると、6点ヒットします。ちなみに、『別本川角太閤記』ではヒットしません。

上記6点のうちのどれかが『別本川角太閤記』なのでしょうかね。よくわかりません。
そこで、『大日本史料』の同書の記載してあるところを見ると、ひとつ気づきました。巻数表示がないのです。
別本ではない『川角太閤記』だと、ちゃんと巻数があるのに、別本にはないというのは大きいヒントではないかと思いました。

上記6点のうち、5冊本と2冊本があるなか、1点だけ1冊本があります。これが別本であるかどうか。もっとも、活版とありますので、和綴じ本数巻を1冊にまとめた可能性もありますので、何とも言えません。

あるいは、他所へ移動した、紛失した可能性もないとはいえません。

とりあえず、わかるのはそれくらいです。

筒井家記?
Tm.
桐野先生へ

問題の史料は、7~8年前、国会図書館にて『筒井家記』を探していたときに偶然見つけたものです。
結局、『筒井家記』なるものは見つからずじまい(八切止夫氏の創作か?)でしたが、確か『増補・筒井家記』のうちの一冊ではなかったかと記憶しています。
その後、東大史料編纂所で探索をと思いつつそのままになってしまっています。


>常識的に考えると、江戸時代初期(元和年間か)に成立した
 とされる『川角太閤記』(現存しているのは幕末期の写本
 ですが)の一変種といいますか、写本の一種で、その成立の
 過程で、創作が加えられたということでしょうかね。

『別本』が先か問題の史料が先なのか、さらには別の出典となる史料がある(あった)のか興味を抱きつつ今に至っている次第です。

読み比べ&感想
板倉丈浩
おはようございます。
ご紹介いただいた谷口克広氏の近刊、早速読んでみました。
谷口氏の場合、いろいろな議論を大ざっぱに分類して、引用・検討する史料も絞り込んでしまっているため、「そう言い切ってしまっていいのかな」と引っかかってしまうことが多く、できるだけ多くの先行研究や史料の内容を盛り込んで、深く考察する方法をとっている桐野さんの御著書の方が私にとっては読みやすかったのですが、それはともかく、細川父子にあてた自筆覚書を最重視し、この史料を徹底的に分析するのが真相への近道とする趣旨は、大いに共感できるものでした。
ただ、細かい部分ですが、下記の点は非常に気になりました。

(1)斎藤利三問題について、高柳光寿氏の『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)で「本当にあったこととは考えられない」と否定的な見解が出されており、谷口氏も『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、1995年)で、この問題を他の怨恨説とともに「事実として認めるわけにはいかない」と切り捨てていたのに、なぜかそれを無視していること。

(2)光秀の享年についても、『織田信長家臣人名辞典』で「活躍の時期や子の年齢から推測すると五十五歳以上とは考えにくい」としていたのに、なぜか正反対の議論が展開されていること。

(3)織田・長宗我部対立の原因を"信長の四国政策の転換"に求める根拠は、軍記『元親記』のみであるにもかかわらず、この点については史料批判が十分でなく、他の記述とバランスを欠いていること。

『織田信長家臣人名辞典』の編纂は本当にすばらしい業績だと認識しておりますので、特に整合性については大事にしていただきたいなあ、と感じました。



増補筒井家記
桐野
Tm.さん、どうも。

返事が遅くなりました。
『増補筒井家記』にも同文がありますか。
そういえば、同記の謄写版の複写を持っていたような記憶がありますが、ちょっと出てきません。

同記は原蔵が内閣文庫(国立公文書館)で、東大史料編纂所にも謄写版が架蔵されているようです。
同所データベースで検索すると、イメージ画像が見られますが、デジタル化されているのは乾・坤の二巻のうち、坤巻だけですね。坤巻は天正11年、つまり信長死後から始まっていますので、役に立ちません。
しかし、デジタル化するのにどうして順番どおりやらないのか不思議ですが。

そういえば、おぼろげに思い出したのですが、『別本川角太閤記』の例の小早川隆景宛て光秀書状、どれかの写本にこれだけを挟み込んであったというのが、発見のいきさつではなかったでしたっけ? これも桑田忠親さんか誰かが書いていたような記憶がありますが、定かではありません。

http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller



イエズス会史料
桐野
板倉さん、どうも。

返事が遅くなりました。

>(1)斎藤利三問題について

すなわち『稲葉家譜』の信頼性の問題になりますが、高柳光寿氏の説の影響はいまだ大きいですね。高柳氏は一次史料以外はすべて俗書という切り方をしていますが、果たしてどうなのか?
何度も申しますが、『稲葉家譜』を俗書の範疇に入れるのはどうかと思っております。
もう一度、史料(一次,二次を問わず)の再検討が必要かも知れませんね。

あと、谷口さんが『織田信長家臣団辞典』と矛盾する記述をしているとのご指摘。私もいくつか気づいておりましたが、仮説には修正や変更がありうると思います。また同辞典の全面的な改訂版の刊行を予定していると、ご本人からもうかがっておりますので、その折には、それらの食い違いが相当解消されるのではないでしょうか。辞典の改訂はなかなか大変なので、現時点では手順前後になっているのではないかと思います。

あと、個人的には、イエズス会関係史料の取り扱いがあまりはっきりしていないのではないかと感じています。
同史料はあまり信頼できないとしながら、けっこう活用している部分が見受けられます。そのあたり、もう少し使い分けの基準を明らかにしてもらえたらと思いました。







光秀姉・照子
Tm.
桐野先生どうも。

先生はご存知でしょうか?最近情報を得たのですが、稲葉一鉄の居城が在った大垣市曽根町にある曽抗山圓徳寺には、同寺第七世道善法師の元へ明智光秀の姉照子が嫁いだという寺伝があるそうです。

道善法師と三人の子息(長男正宗、二男範光、三男範頼)は天正十年六月十三日の山崎の合戦に参戦し、長男正宗討ち死にし、道善法師も七月七日没なので捕らえられ殺された可能性が高く、二男範光、三男範頼は落ち逃れてのち安八郡に住み、杉山、野村という姓を其々名乗り現在も子孫の方がおられ、幼かった四男が正宗を名乗り圓徳寺第八世を継いだとのこと。

照子といえば一般には光秀の室とされる女性であり『綿公輯録』にいう妻木範熈の娘(熈子)のことだと思われますが、範光、範頼の名にはその範熈を思わせるものがあり、寺伝を信ずれば光秀は妻木氏であったということになりそうですが、室の姉の誤伝とも言えそうです。
不勉強ながら、照子というのは『絵本太閤記』に記された名であり、熈子が正しいとされるのは妻木範熈の娘だからいうことでなのでしょうか?

ただ問題は、寺伝によればなぜか照子の旧姓は相模であったとのこと。再嫁ではないかとのことらしいのですが「相模の照子」に何かピンと来るものがありませんか。

なにやら光秀の伝説、すなわち彼が確かな史料に登場する以前の経歴が形成される過程の一端を、この圓徳寺の寺伝は窺わせてくれるやに思われますが如何でしょう。


高柳光寿『明智光秀』
板倉丈浩
桐野さん、こんにちは。レスありがとうございます。

>高柳光寿氏の説の影響はいまだ大きいですね。

非常に古い本ですが、大河ドラマなどから歴史学に興味を持った人には、一次史料の重要性を教えてくれるという意味で、高柳氏の『明智光秀』は格好の入門書だと思いますね。
また同書の最後で、光秀の一生は封建社会下で主君信長の命のままに動いた淋しい人生であったとし、「独立した人格の樹立、それの企画が同時に死であった」と結論する部分は非常に印象深く、今でも傾聴に値するのではないかと個人的には思っています。

>高柳氏は一次史料以外はすべて俗書という切り方をしていますが、果たしてどうなのか?

高柳氏も『原本信長記(信長公記)』『秀吉事記(惟任退治記)』『豊鑑』『川角太閤記』など早期に成立した史料は比較的良質としているのですが、本能寺の変の原因に関してはこれらも含めて切り捨てていますね。
結局、消去法で全部消えてしまうから、戦国武将に関する一般論や当時の情勢から野望(+将来への不安)説を提示しているわけですが、その一般論や情勢分析が果たして妥当かという問題は残ると思います。

>もう一度、史料(一次,二次を問わず)の再検討が必要かも知れませんね。

これに関しては全く同感です。
今のところ、二次史料の記事で裏付けがとれるのは、(これは本書で谷口氏も指摘していることですが)『川角太閤記』の光秀が重臣を説得するセリフ(老後の思い出に)が、自筆書状の内容(早く隠居したい)と符合していることくらいですので、今後の検討課題ですね。

>仮説には修正や変更がありうると思います。

まあそうなんですが、私のように前著を持っている人は少なからずいると思いますので、何らかの言及はあってしかるべきと思うんですよね。
特に斎藤利三の一件については、本書の88ページで「ずっと後の『続武者物語』で作られたと思われる話である」としているわけですから、同じ本の中でも整合性がとれていませんし、やはり問題だと思います。

>また同辞典の全面的な改訂版の刊行を予定していると、ご本人からもうかがっておりますので、

この辞典のよいところは、細かい部分でも典拠史料名をいちいち挙げてくれていることですので、改訂版でもそれは徹底していただきたいですね(^^

>個人的には、イエズス会関係史料の取り扱いがあまりはっきりしていないのではないかと感じています。
>同史料はあまり信頼できないとしながら、けっこう活用している部分が見受けられます。

外国人だから客観的にみれるだろうとするか、偏見が入るだろうとするか・・・。
これもやはり、二次史料の扱いの難しさということに帰結するんでしょうけど、自説に都合のいい部分だけ活用するということにならないよう、注意が必要ですね。



国立公文書館
Tm.
本日、国立公文書館へ行ってまいりました。
結論から言えば、『別本川角太閤記』らしきものはありませんでした。

職員の方にお聞きしたところ、2冊本の片割れがそうだとのことでしたが、内容は他のものと同じで、<1巻、2巻、3巻(上)><3巻(下)、4巻、5巻>といった構成でしたが、発刊されたのは後巻のほうが早く明治13年、前巻は明治15年で、微妙に体裁も異なっていました。
ただあくまで刊本ですから、それに問題の書状が挿まれていた(付図)されていたとすると、写しにせよ実物であったとは考えづらいのではないでしょうか。
で、改めて同館所蔵の『増補筒井家記』2種を閲覧したところ、やはり件の書状がしっかり載っていました。

『増補』の成立時期については不勉強ながら存じていませんが、こちらを出典として作成された摸本の書状が『別本』とされたものに付図されていたなんてことは考えられないでしょうか。あるいは『大日本史料』の編纂作業において出典の記載に誤りが、例えば『増補』を『別本』と誤認したなんてことは考えられないでしょうか。

また新著において「まったく別の本である」と述べられているあたり、谷口氏は何かご存知ないでしょうか?

別本と増補
桐野
Tm. さん、内閣文庫の探索ご苦労様です。

所員の話では、一応「別本~」とされるものはあるようですね。
想像するに、大日本史料第11編の編纂過程で、例の光秀書状が挟み込まれていた写本を他の写本と区別するために、おそらく便宜上「別本~」と名づけただけじゃないでしょうか。
所員が指摘した「別本~」に、光秀書状があったかどうかは確認されたのでしょうか? おぼろげな記憶ですが、挟み込まれていた光秀書状も写しだったと思いますが。

『増補筒井家記』については、私も書誌学的なことはよく知りません。また『別本~』との関係もよくわかりません。
なお、大日本史料の編纂過程で、『増補~』と『別本~』を混同したというのはまずありえないと思います。現に『別本~』が存在しておりますし。

もっとも、大日本史料第11編之1のなかで、光秀書状の出典として『別本~』を載せながら、『増補~』を載せなかったのが、もし見落としのせいだったとしたら、小さくないミスかもしれませんね。

いずれにせよ、二つの史料に光秀書状(写し)が掲載されているという事実はそれなりに重要だろうと思います。だからといって、この書状が本物だとは思いませんが(笑)。



Re.別本と増補
Tm.
自分自身、不勉強であったのと説明不足であったと思われますので、くどいようですが再投稿をお許しください。

嘉永四年に刊行された『川角太閤記』は、全五巻のうちの三巻之上までであり、明治十三年に我自刊本として残りの部分が出版され、同十五年には改めて前半が出版されたものであり、それが内閣文庫の[請求番号] 168-0056 [数量] 2冊 [書誌事項] 活版 ,明治13年 ~ 活版 ,明治15年になります。
内閣文庫において「別本」と呼ばれているのはその後半部の方であり、「嘉永四年本」に対する続刊としてそう呼ばれているらしく、実は『内閣文庫図書目録』にもそのように記されていました。
したがって『大日本史料』の「別本川角太閤記」とは全く別のものということになります。

桑田忠親氏も、「川角太閤記の成立と内容」(『太閤記の研究 』)においては
  このほかに、写本として伝わる「別本川角太閤記」と
  いうものが一巻あり、少しく流布本と異なる点がある
と記すのみでその所在には触れられていませんが、先の内閣文庫の我自刊本二冊についての説明に続いて述べられていることから、谷口氏が内閣文庫蔵とされたのは誤認であったと考えられます。
で留意すべきは、桑田氏が「少しく流布本と異なる」と述べられていることであり、それは『大日本史料』に収録された部分を指しているのではないかと考えられ、氏もまた現物を確認されていないのではないかと疑われます。

そのうえで『大日本史料』の「別本川角太閤記」というのは、ご指摘の如く、流布本との違いから編者が便宜的にそう名付けたものと考えられそうそうですが、『大日本史料』のそれには、書状とともにその入手経緯が記されており、書状のみが単独で挿み込まれていたとは考えられません。
そこで『増補筒井家記』の問題部分を見ると、誤字脱字と思われる違いはあれど、注記部分の書き方(文字配列)を含めほぼ『大日本史料』と一致しているのです。
もし実際に「別本川角太閤記」なるものが存在していたとすれば、それはかなりの希書であったはずですが、そうした一致をどのように考えるべきなのでしょうか。

ちなみに、国会図書館蔵『増補筒井家記』(写)は、奥書によれば「丁時安政二年(五)月」とのことであり、嘉永四年に『川角太閤記』が刊行されて少しのちのこととなりますが、その『増補』の記述を取り込んだ変種の写本であったとは考えられないでしょうか。

一体、『別本川角太閤記』は何処にあるのでしょうか。

別本川角太閤記は2種ある?
桐野
Tm. さん、どうも。

内閣文庫所蔵の川角太閤記諸本の整理、有難うございます。ただ、以下の部分ですが、

>したがって『大日本史料』の「別本川角太閤記」とは全く別のものということになります。

そのように断じてもよいのかどうか、いまひとつよく呑み込めません。
内閣文庫が『別本~』としているのは、明治13年本、同15年本のどちらなのでしょうか。私の頭ではよく理解できずにいます。
もし明治13年本で、川角太閤記の後半部分(第三巻之下以降?)だとしたら、おそらく本能寺の変よりだいぶあとの記述だと思われますので、大日本史料収録の『別本~』とは異なるということなら、一応わかります。
この理解でよろしいのでしょうか?

もしそうだとすれば、内閣文庫の『別本~』は明治期に成立したことになりますね。
ただ、大日本史料収録の例の光秀書状が挟み込んであっただけなら、明治13年本でも矛盾は生じません。本文とは関係ないことになるので。
また、大日本史料編纂にあたって、内閣文庫が付けた史料名を変えてまで収録するのか(混乱を招くのは必至、しかも、史料名変更の説明もない)という素朴な疑問はなお残っています。
内閣文庫の『別本~』と大日本史料の『別本~』は同一のもので、前者に光秀書状が挟み込んであったので、それをその史料名のまま大日本史料に収録した(本文ではなく挟み込みの文書なので、巻数表記もない)とは理解できないでしょうか?

>ちなみに、国会図書館蔵『増補筒井家記』(写)は、奥書によれば「丁時安政二年(五)月」とのことであり、嘉永四年に『川角太閤記』が刊行されて少しのちのこととなりますが、その『増補』の記述を取り込んだ変種の写本であったとは考えられないでしょうか。

『増補筒井家記』についてですが、同書が『川角太閤記』(嘉永四年)の四年後の安政二年に成立しているとのこと、ご教示有難うございます。

となると、内閣文庫所蔵『別本~』よりも『増補~』が先に成立したことになりますね。もしかして、例の光秀書状は『増補~』に先に収録されたことになりませんかね? もしそうなら、『増補~』成立ののち、『別本~』はそれを見て再収録したということになるのか? となると、例の光秀書状は『増補~』が本来の出典ということになるのか?

また大日本史料収録の『別本~』も内閣文庫の『別本~』と同一か否かはともかく、成立はだいぶ下って、明治期の可能性がありますね。例の光秀書状にある大仰な書止文言「誠惶誠恐」、これも敬語や謙譲語が織豊期よりも格段と過剰になった明治期のものだと考えれば納得がいきます。つまり、明治期に作られた偽文書だと思われますね。

なお、手持ちの改訂史籍集覧本の『川角太閤記』には、昌平黌教官の安積信の撰(嘉永四年嘉平月[陰暦十二月の意])と、同年十二月の凡例があります。
そして、末尾に黒川真頼の簡単な解題がついており、その年月日は明治十年八月で、「同十一年九月以浅草文庫御本一校了」と記されています。
さらに、次のように記されています。
「右川角太閤記五巻我自刊我本を以て刊行せり、第壱巻より第三巻まてハ東京帝国図書館本にて一校を経たりといへとも四巻以下ハ異本を得ること能はす、故に原本のまゝ刊行す 明治三十四年三月」

ご参考までに。



訂正
桐野
上記の拙文について、少し訂正があります。

『別本川角太閤記』は光秀書状が挟み込んであるだけではないのかとした点について、どうもそうではなく、本文にも『川角太閤記』とは異なる記述があるようです。

高柳光寿『本能寺の変山崎の戦』には次のように書かれています。

「『別本川角太閤記』には、光秀が本能寺の変を報じて毛利家の協力を求めた使者は、三日の深更高松に着いたが、夜暗に誤って秀吉の陣場へ迷い込んで捕らわれたとあり」云々

これによれば、『別本~』は光秀書状が挟み込まれているだけではないようです。
私の記憶違いだったようです。議論を混乱させた点、お詫びします。

今一番知りたいところ
Tm.
桐野先生どうも。

当初、明治13-5の我自刊本を閲覧したときに、2冊のうちの後半に当たる方が先に出版され、前半が後からの出版であることに疑問を感じていたのですが、桑田氏の論考を読み、嘉永四年に刊行された『川角太閤記』が全五巻のうちの三巻之上までであったことを知り納得するとともに、その続編扱いとして三巻下~五巻の我自刊本が「別本」と称されている理由を知った訳です。

ちなみに、嘉永四年の刊本は鼻から調査の対象外としていたので閲覧しませんでしたが、5冊というのは一巻上、同下、二巻上、同下、三巻上の5冊なのでしょうね。近日中に確認したいと思っています。

>また、大日本史料編纂にあたって、内閣文庫が付けた
 史料名を変えてまで収録するのか(混乱を招くのは必至、
 しかも、史料名変更の説明もない)という素朴な疑問は
 なお残っています。

そもそも、『別本川角太閤記』の所在については長年の疑問であったのですが、図らずも谷口氏の今回の著書に依って内閣文庫の蔵書である事を知ったのですが、内閣文庫のそれはあくまでも『川角太閤記』であって、目録上の説明として便宜的に「別本」と称されている過ぎず、『大日本史料』のそれとは明らかに別のものであり、谷口氏が何を根拠に内閣文庫の蔵書と述べられているのかが今一番知りたいところです。

なお『大日』と『増補』では、書状の後半部分に若干の違いが見られますが、それに依って何か意味合いは違ってこないでしょうか?
  『大日』 且将軍被遂御出□意之条、
  『増補』 且将軍被遂御本意之条、

  『大日』 此宜預御披露者也
  『増補』 此宜預御披露者也

先生は「誠惶誠恐」という文言にお拘りのようですが、件の書状は単に隆景宛というより、将軍である義昭に披露されることをも考えそのような文言が使われたとは考えられないのでしょうか。

光秀書状の不自然さ
桐野
Tm.さん、再度のご教示有難うございます。

谷口克広氏の著書だけでなく、桑田忠親氏も以前から『別本川角太閤記』を内閣文庫本だとしていますね。

内閣文庫本であることは確実ですから、同所が所蔵している6点の『川角太閤記』の冒頭部分(巻一)を閲覧されれば、そのうちのどれかに例の光秀書状が収録されているのではないでしょうか。もし収録されていたら、それが『別本~』だということになりますね。

『大日本史料』と『増補筒井家記』の違いを示していただき有難うございます。どうやら同じ写しでも『増補~』のほうが相対的に良質なのではないかと思われます。赤字で示していただいた部分、どちらも『増補~』のほうが自然で妥当な文言ではないでしょうか。

>『大日』 且将軍被遂御出□意之条、

□の部分は欠損というか不明字でしょうか? 闕字は考えにくいですね。不明字なら、「上」を入れて「上意」とすれば意味が通りそうですけどね。

>『大日』 此間宜預御披露者也
>『増補』 此旨宜預御披露者也

これも『増補~』のほうがぴったりきますね。

じつは『増補~』のこの部分と似たような文言の文書があるのに気づきました。
島津義久が将軍義昭側近の細川藤孝に宛てた書状案です。年次・月日は元亀元年七月十六日付です(『島津家文書』1420号)。
その末尾と書止文言は、

「以此旨、宜預御披露候、恐惶敬白」

というものです(同文書1431号も同じ)。

もっとも、文言が似ていても、用法的には非なるものではないかと思います。
それは光秀書状にある「~者也」という表記です。たとえば、この表記は信長文書や秀吉文書でも禁制や起請文を除いて見かけません。信長や秀吉は書状・朱印状などで、下位者に対しては「~候也」を用いるのがほとんどです。
禁制や起請文(領知目録も)では、その末尾の文言(恐々謹言や仍如件などの書止文言の直前の文言)を「~者也」で結んでいることが多いですね。ですから、光秀書状の「~者也」はふつうの書状にはまず見かけない文言なのです。これだけでも不自然な書状だといえます。

書止文言については、上記の島津義久文書は「恐惶敬白」と、かなり厚礼の文言を用いています。これは将軍義昭の全盛時代ですから、義久も最大限の敬意を示し、ご指摘のように、義昭への披露を期待してのものでしょう。

しかし、同じ将軍義昭奏者宛ての義久文書でも、もう少し時代が下って、天正十三年になると、書止文言が「恐々謹言」と薄礼になります。なお、宛所の奏者は真木嶋昭光や一色昭秀です(同文書1431,1432号)。
将軍義昭への披露を期待しているからといって、奏者宛ての書状の書止文言は決して厚礼ではありません。
元亀元年と天正十三年とでは、将軍義昭の政治的地位も異なることも一因かもしれませんが、それでもやはり「恐惶誠恐」はちょっとどうかなと思います。

光秀書状にはほかにも、次のような不自然な表記があります(左側が光秀書状、右側が本来的な表現)

羽柴筑前守秀吉/羽柴筑前守、羽筑、羽藤
将軍/公方様、上様、上意

以上が、私が光秀書状が不自然で偽文書ではないかと考える理由です。


写本ということなので
Tm.
桐野先生、詳細なるご説明、ご返答ありがとうございます。

>谷口克広氏の著書だけでなく、桑田忠親氏も以前から
 『別本川角太閤記』を内閣文庫本だとしていますね。

そう述べられている文献をお教え願えれば幸いです。
内閣文庫所蔵6点のうち3点は確認済みで、残る3点も刊本ということで同一内容のものである可能性が高いと思われます。

桑田氏も
  写本として伝わる「別本川角太閤記」というものが1巻あり、
と述べられており、唯一の写本である[請求番号] 168-0022(※桑田氏曰く江戸中期以降か)も違うので、内閣文庫にないのはほぼ間違いなく、やはり氏もまた『大日』を参考とし現物を目にはされていない可能性が高いのではないでしょうか。
写本としては他に数箇所の所蔵先があるので、もしかしたらそのなかに在るのかも知れませんが、『大日』の編纂時にそこまで調査に及んだのかという疑問があります。

件の書状(入手経緯の説明を含め)の引用順序が『増補』が先か『別本』先かの問題もありますが、写しを重ねる上で用語や文字の変化もありうるのではないでしょうか。本来「羽柴筑前守」や「羽筑」であったものを分かりやすく羽柴筑前守秀吉としたり、読取れない文字を知っている文字に改めたりと。

いづれにせよ、幕末の編纂史料に収録されたものということで信憑性に疑問があるのは確かですが・・・


追加、差異事項
Tm.
 『大日』 過テ秀吉ノ陣ノ邊ヲ行ルヲ
 『増補』 過テ秀吉ノ陣ノ邊ヲ行ルヲ

 『大日』 秀吉有披見大井ニ驚彼者ノ首ヲ刎ラル
 『増補』 秀吉有披見大井ニ驚彼ノ者ノ首ヲ刎ラル
 

桑田忠親氏
桐野
Tm.さん、どうも。

桑田忠親『明智光秀』(講談社文庫、1983年)には次のように書かれています。

「この密書は、内閣文庫本の『別本川角太閤記』にその写本が引用されているが、秀吉が、密使を捕え、密書の原本を焼却した際に、その文言を写し取っておいたものが、いつしか何者かの手によって写し伝えられたものであろうと、推測する」

という具合で、桑田氏も内閣文庫本であることは把握していると思います。この文庫の原版は新人物往来社の同名本(1973年刊)です。これも所蔵していたはずですが、どこかにしまい込んだのか出てきません(泣)。

なお、桑田氏の記述の後半部分の推測は的はずれではないかと思います。オリジナルを焼却したので、うろおぼえで写し取ったから、ちょっと文章や文言がおかしいのもしかたないと、自説に都合がよいようにエクスキューズしているようにも見えます。

ほかの著作にも、内閣文庫本だとする記述はありそうですけど、その実、実物がよくわからないというのが何とも。
東大史料編纂所にかつて勤務した桑田氏や高柳光寿、奥野高広氏などは別本をじかに見たのではないかと思うのですけどね。


Re.桑田忠親氏
Tm.
桐野先生、本日改めて国立公文書館へ行って参りました。

少なくとも現在、同館の蔵書に『別本川角太閤記』なるものは無いようです。
『大日本史料』が編纂された当時』(昭和2年)の蔵書状況も調べるのは難しく、ただ移動や紛失はまず考え難いとのことですから、昭和40年代に桑田氏がそう断定的に述べられているのはやはり疑問と言わざるを得ません。
あとは昭和15年(1940)に同氏が出版された『豊太閤伝記物語の研究』に何か載っているどうかですが。

ちなみに東大史料編纂所の『増補筒井家記』は内閣文庫蔵の謄写本とのことですから、もし『別本川角太閤記』なるものが存在していたら、同じく謄写本が製作されていても良いのではないでしょうか。
ただその時期が『大日よりも後の昭和17年とのことですから、断片的な写し取りの過程で原典名を誤ってしまい、なおかつ作業者が異なる為、訂正がなされぬまま今日まで来てしまった可能性もあるのではないでしょうか。
現に、これまで多くの研究者の方々がそれを引用しながら、誰も気付かれなかったくらいですから。

いずれにせよ、当時を知る関係者の方がお亡くなりになってしまっている以上、もはや調べようがないのですが。


春長軒
ヨコから失礼します。

これは周知のことですが、『別本川角太閤記』に所収されている六月二日付け小早川左衛門佐殿充て惟任日向守書状写は、『大日本史料』第十一編之一、17頁に収録されています。
ただし、この惟任日向守書状写は、桐野さんも述べられているように明らかに偽文書だと思います。
Tm.氏は、この惟任日向守書状写には未だにこだわっているようですが、これは当該期の古文書と比較してみても、あるいは古文書学上からも論議の余地がないほどの偽文書です。
たとえば、本文の「羽柴筑前守秀吉」との表現は当該期の古文書からみれば可笑しいです。桐野さんの指摘のごとく、羽柴筑前守、あるいは羽筑、羽柴藤吉郎、羽藤と書くのが普通です。
また、「将軍」とあるのは足利義昭を想定した文言だと思いますが、当該期の文書で征夷大将軍を指す場合には「公方様」あるいは「上意様」あるいは「公儀」と記すのが普通です。「将軍」と直接的な表現は全くあり得ないと思います。

ついで、「今月二日、於本能寺、誅信長父子」との文言では、「於本能寺」と具体的な場所を書くことも可笑しいです。これは、後世において信長が横死した場所が余りにも有名なため、惟任日向守書状を本物らしく見せるため、ことさら「於本能寺」と強調したまでのことと思います。

これは蛇足ですが、「此間宜預御披露者也」の文言では、惟任日向守が披露を求めた先は将軍義昭ではなく、宛名小早川左衛門佐(隆景)の主家毛利輝元だと思います。

さらに、本文の書留には「誠惶誠恐」とありますが、これも当該期の古文書からみれば全く異質な文言です。恐々謹言、恐々敬白、恐惶謹言、恐惶敬白などとするのが正しいです。


ところで、『別本川角太閤記』の件ですが、『大日本史料』の編纂時に史料たる『増補筒井家記』と『別本川角太閤記』を間違えることはあり得ないことだと思います。
また、『大日本史料』が和装の活版本(いわゆる活字本)を史料として採用することもあり得ないことだと思います。嘉永四年に刊行された『川角太閤記』や、明治13年ないし15年に活版された「我自刊我書」本の『川角太閤記』など、版本や活字本は対象外だと思います。

『大日本史料』に収録されている『別本川角太閤記』は、いわゆる写本からの採用だと思います。
他の機関には『川角太閤記』の写本を所蔵する所もあるようなので、あくまでも惟任日向守書状写にこだわるのであれば、それら写本の閲覧をお勧めします。

駄文で失礼しました。


別本川角太閤記のありか
桐野
Tm. さん、春長軒さん、どうも。

Tm. さん、再度の内閣文庫調査、お疲れさまです。
やはり該当する写本はなかったのですね。
う~ん、謎が深まりましたね。

春長軒さんの古文書学的な解説、有難うございます。例の光秀書状の披露先が将軍義昭ではなく、毛利輝元だというご意見、なるほどと思いました。

もっとも、Tm. さんも光秀書状が本物だとこだわっておられるわけではないと思います。所蔵先がどこなのか、『増補筒井家記』にも同じ光秀書状が収録されているのはなぜか、『別本~』とどんな関係にあるのかという点に謎解き的な関心がおありではないかと思います。

『大日本史料』に収録され、もしかしたら、昭和初期に編纂を担当されたかもしれない桑田忠親氏が内閣文庫所蔵の写本だと断言されている。しかも、内閣文庫側は移動や紛失は考えられないという。同文庫が所蔵する『川角太閤記』6点のうち、刊本・版本を除いた写本にも該当する箇所が見つけられないという調査結果のため、Tm. さんは果たして真相はどこにあるのかという疑問をお持ちのようです。

私としては何ともいえませんし、国家事業である『大日本史料』編纂に初歩的なミスがあるとも思えません。あるいは、内閣文庫所蔵の写本をすべて隅から隅までチェックする必要があるかもしれません。補遺的に載っている可能性もありますし。

それと同時に、『増補筒井家記』に同じ光秀書状が収録されていたというのは、管見の限り、これまで聞いたことがなかったので、とても興味深いです。また写本としてはこちらのほうが良質そうだというのもまた面白いです。
偽文書である点には、どなたもそれほど異論がないところだと思いますが、その伝来状況が単純ではない面がありそうで、それなりに興趣があるように思われます。


春長軒さん、はじめまして。
Tm.
桐野先生にもご弁護頂いてますが、自分も同書状の信憑性自体に拘っている訳ではありません。当日付けの書状において「今月二日」と記すのも可笑しなことですし。

問題は、『大日』に収録されたものと全く同じ状態で『増補』に記載されているという事実なのです。しかもそちらの方がより良質らしいという点も。

どうやら内閣文庫蔵の『増補』に奥書は無い様で、国会図書館の写本の
  丁時安政二年五月 飛州益田郡在 竜田良元記
というのが成立年次および著者ということになるのでしょうか?
この竜田良元なる人物が問題の書状を捏造したのか、あるいは彼も写し取っただけなのか興味のもたれるところです。

写本の悉皆調査となるともはや個人の趣味としては不可能であり、ましてや偽文書らしいとなれば研究の対象としてそれほどの価値があるのかどうか。
何方か史学科の学生さんが卒論のテーマにでも採り上げてくれれば良いのですが。

大日本史料稿本
Tm.
桐野先生、興味深いことに気が付きました。

東大史料編纂所のデータベースにて「大日本史料稿本」を拝見しますと、『増補』の問題箇所の前後の文章が確りと採録されているのです。
ということは、問題箇所についても関係者の方は知っていたハズなのではないでしょうか。

にも係わらず『大日本史料』では『別本川角太閤記』のみが採録史料として挙げられ、なおかつその所在が不明である。
謎は深まるばかりですが、「史料稿本」自体は明治前期の制作らしく、
  現在の研究水準からみて訂正すべき箇所も少なく
  ありません。
とのことですから、その時点で史料名が取り違えられ、高柳氏らもその所在を掴めぬまま『別本』として掲載されたのではないでしょうか。

刊行された分の『大日』の「史料稿本」が見られないのが残念であり、そこにどのように史料名が記されているのかが注目されるのですが・・・


見ましたが
桐野
Tm.さん

ご紹介の大日本史料稿本データベースを見てみました。
天正10年6月3日まであるのに、肝心の同4日条の『増補筒井家記』はないんですね。そのあと、天正14年に飛んでいて、少しがっかりしました。
100点以上のファイルがあったので、どうしようかと思いましたが、何とか6月2日付の『増補~』は見つけられました。
ここまで編纂過程がわかっているのですから、ご指摘のように、当然編纂官も同4日付を確認した確率は高いと思います。

それにしてもこの稿本に本能寺の変当日条があったのにはびっくりしました。どうやら同史料の10編収録の予定で作られたようですね。
11編の天正10年6月4日~同13年12月晦日までがすっぽり抜け落ちているのはなぜなんでしょうね。考えられるのは、同14年に正親町天皇が譲位し、後陽成天皇が即位する節目になっているからではないかと思いますが……。

ともあれ、史料綜覧だけでなく、~稿本もいろいろ使えそうですね。


修正兼見卿記
Tm.
桐野先生へ

刊行された『大日』では正・別の区別表記は為されていないようですが、「稿本」において『別本兼見卿記』が『修正兼見卿記』と記されているの点、興味がもたれます。

>11編の天正10年6月4日~同13年12月晦日までがすっぽり
 抜け落ちているのはなぜなんでしょうね。

刊行済みの『大日』あるいは『綜覧』を参考にするようにとのことなのでしょう。
むしろ「稿本」に6月1日の条がないのが不思議です。

>ともあれ、史料綜覧だけでなく、~稿本もいろいろ使えそう
 ですね。

膨大分量であり閲覧するには大変な労力を必要とするのは必至ですが、『大日』の未刊部分に何か新知見があるのではないでしょうか。的を絞って検索するのも一つの手ですね。

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コメント
この記事へのコメント
はじめまして^^

私の芸能サイトで
こちらの記事を紹介させて頂きましたので
ご連絡させて頂きました。

紹介記事は
http://newsoftoday.blog89.fc2.com/blog-entry-935.html
です。

これからもよろしくお願いいたします^^
2007/04/21(Sat) 08:24 | URL  | 旬な話題 #-[ 編集]
お聞き流しを
『検証 本能寺の変』早速、購入しました。

確かに読みやすい。非常に読みやすい。
それに比べると『だれが信長を殺したのか』の難しいこと。

願わくば新書にて刊行して頂きたかったです。
2007/04/22(Sun) 23:14 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
操作ミスですか
Tm.さん、おはようございます。

管理人のみ閲覧と同じ趣旨のコメントをいただいておりますが、もしかして操作ミスで二回アップされたでしょうか? そうならご愛敬ですが(笑)。

谷口氏の著書、読みやすいというのはその通りだと思いますが、もともと趣旨や方法論が異なるので致し方ありません。どちらにもそれなりの長所・欠点があろうかと思います。
2007/04/23(Mon) 09:41 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
申し訳ありません
>もしかして操作ミスで二回アップされたでしょうか?

その通りです。出来れば<管理人のみ>の方を削除してください(謝)


>もともと趣旨や方法論が異なるので致し方ありません。

ただ、『だれが』が難しいと言ったのは良い意味でですので御気を悪くなさらないでください(笑)
その上で『検証』は、どうしても鈴木、藤本両氏のご著書と比較されるのは致し方ないのではないでしょうか。

後発の強みはありますが、それ以上の注目すべき新知見(「福屋文書」のような)もあるわけではなく、『当代記』における「光秀67歳・説」についても、『明智軍記』の55歳と言う年齢は疑わしいものの、当時、信長ですら49歳と初老に差し掛かっており、ましてや天正4年に生死をさ迷う大病を患っている光秀は実年齢以上に老け込んでいたと考えられ、それを積極的に肯定すべき根拠はないと存じます。

その上で、谷口氏や堀氏にも共通することですが、桐野先生はかつてご自身が「(朝廷)黒幕説」を叢生させてしまったという反省から、公武の対立を必要以上に矮小化されてはおられないでしょうか。

歴読2003年5月号の『信長「腹立」の真相』興味深く拝見いたしました。
同事件が組織としての公武の関係に深刻な影響を与えたとは考えておりませんが、少なくとも信長と誠仁親王の間にはある種のわだかまりを生じさせたに相違なく、その前後の出来事を体系的に見返すと、光秀の謀叛の背景(決断)にも通じるものがあるのではないかと思われます。


それと「妻木」ですが、『兼見』では天正6年6月14日の記事にも見られますが、ただ「妻木」とあるだけで個人を特定するような記述がなされていません(※信長在京)。翌7年の記事にある光秀姉妹の「妻木」とは別人なのか、さらに翌8年1月の記事の「妻木」とはどうかを合わせ考えるに、当時「妻木」と記すだけで分かる人物がいたのではないでしょうか。

とくに天正6年の記事で兼見は、「妻木」に「臺之物、肴色ゝ・双瓶」を使者を立てて贈っているのに対し、猪子高就には「角豆一折」を持参しており、その違いには興味深いものがあります。
2007/04/23(Mon) 12:57 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
公武関係について
Tm. さん、なかなか興味深いご意見有難うございます。

>桐野先生はかつてご自身が「(朝廷)黒幕説」を叢生させてしまったという反省から、公武の対立を必要以上に矮小化されてはおられないでしょうか。

それほどでもないと思っておりますが……。
もともと、公家と武家は成り立ちが異なり異質です。価値観がかなり違いますね。
したがって、その違いからくる軋轢は、信長期に限らず公武関係にはつきものです。それは鎌倉時代から幕末まで一貫してそうではないでしょうか。信長だけを特別に考える必要はないと思います。

歴史読本に掲載した拙稿もご覧になっているようで感心しておりますが、この一件についても、江戸時代初期の紫衣事件や和子入内事件とくらべると大したことはありません。
和子入内のほうが当時の公武関係にとって重大で、とくに天皇家にとっては青天の霹靂ともいうべき徳川家の横暴に見えたはずですが、当該期に公武対立だとか、徳川将軍暗殺計画があり、陰の黒幕は朝廷だったなどという説はありませんね。
逆説的にいえば、和子入内でさえ受け容れた朝廷ですから、典侍冷泉氏の一件など受忍の範囲内でしょう。信長期の公武関係は非和解的・非妥協的な対立では決してなかったのではないでしょうか。
谷口さんもご指摘のように、信長だけ特別視している傾向がありますね。

>歴読2003年5月号の『信長「腹立」の真相』興味深く拝見いたしました。
同事件が組織としての公武の関係に深刻な影響を与えたとは考えておりませんが、少なくとも信長と誠仁親王の間にはある種のわだかまりを生じさせたに相違なく、その前後の出来事を体系的に見返すと、光秀の謀叛の背景(決断)にも通じるものがあるのではないかと思われます。

この一件は、発案者は信長ではないのではないか、むしろ信長はある公家集団の計画に乗せられただけではないかと、最近思っております。
その公家集団というのは、拙稿にも示唆されていますが、信長死後、正親町天皇の勅勘を蒙っています。その理由は通常、別の一因があげられていますが、私は違うと思っています。それが原因なら、複数の公家が勅勘になるはずがないからです。

誠仁親王がこの件で信長に意趣を含んだというのがまったくないとはいいませんが、それよりも、二条御所の譲渡や即位の約束という信長からの恩恵のほうがくらべものにならないくらい、はるかに大きかったのではないでしょうか。


『兼見』にはたしかに「妻木」がよく出てきますね。
この「妻木」は「光秀妹」ではなく、その兄か父の立場にあるような、光秀の側近として重きをなしている人物ではないかと思います。
猪子高就との音信の軽重に注目されたのはなかなかだと思いますが、これが妻木と猪子の身分差によるものか、単なるこのときの事情(妻木に多く贈る必要があった)によるものかはわかりません。それでも、信長側近より多いのはたしかに面白いですね。




2007/04/23(Mon) 17:20 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
上意トセリアイテ
桐野先生、お忙しいなかでのご返答ありがとうございます。

自分が「腹立事件」において注目している出来事の一つに、「安土山図屏風」の件があります。
先の歴読のご論稿では禁裏に献上されたと述べられていますが、実際には正親町天皇の「勅書=賛」を得るべく高覧に供したものであり、後にヴァリニャーノ(天正遣欧少年使節団)によってバチカンに献納されています。
問題は、立花京子氏の言われるように当初から後者を前提に屏風が描かれ、そして天皇の賛が要求されたのかどうかということですが、まずそれはないでしょう。

ではなぜ信長は天皇に賛を要求をしたのかということですが、単なる自慢の為であったとするには、当時の史料において話題に上っていないことに疑問があります。
自分には「腹立事件」と「安土山図屏風の一件」に、永禄12年の将軍義昭と信長の「競合い事件」を思わせるものがあり、後者における「女房奉書」に当る物が前者での「勅書=賛」であり、思わぬ抵抗を見せた誠仁親王に対する信長の牽制ではなかったかとみています。

>この一件は、発案者は信長ではないのではないか、むしろ
 信長はある公家集団の計画に乗せられただけではないかと
 思っております。

たとえそうであったとしても、信長はもはや親王が自分の意に逆らうとは考えていなかったのではないでしょうか。詳細を失念しましたが、親王の信長に対する反感を天皇がたしなめるような出来事も記録にあったやに思います。
親王は「変」の折に「切腹すべきか」と申し出たほどの人物ですから、事あるごとに周囲に不満を漏らすようなこともあったのではないでしょうか。

義昭の時とは立場が違いますが、光秀も兼見や長岡(細川)藤孝らからそうした状況を伝え聞き思うところがあり、謀叛を決断する(自身を納得させる)理由としたのではないでしょうか。
2007/04/23(Mon) 19:20 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
『川角太閤記』と『別本川角太閤記』
話しは代わりますが、是非とも桐野先生にお教え頂きたいことがあります。

それは『川角太閤記』と『別本川角太閤記』の関係及び巷間への流布についてです。
『検証』では両者は「まったくの別の本である。」とあるのみで詳しい説明がありません。
また、他でもそれに対する説明はないと存じます。
なぜそのことに拘るのかと言えば、後者に収録されている小早川隆景宛ての光秀の書状と同じものが別の史料にも収録されているからです。

『検証』では、『覚上公御書集』の「河隅忠清発給文書」が従来知られている以上に多くの上杉景勝関係の史料に収録されていることの指摘がありましたが、「小早川隆景宛書状」については旧知のことなのでしょうか。

自分の不勉強かも知れませんが、上記のことお教え願えれば幸いに存じます。
2007/04/23(Mon) 20:34 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
別本川角太閤記
Tm.さん、どうも。

『別本川角太閤記』ですが、私は『大日本史料』第11編之1(秀吉時代)に収録されているものしか知りません。それも、ほんの一部、ほとんど小早川隆景宛て光秀書状だけで前後の文脈はわかりませんね。
大日本史料に収録されているのですから、東大史料編纂所に原典なり写本なりがあるのかと思って検索してみましたが、少なくともデータベースではヒットしませんね。

常識的に考えると、江戸時代初期(元和年間か)に成立したとされる『川角太閤記』(現存しているのは幕末期の写本ですが)の一変種といいますか、写本の一種で、その成立の過程で、創作が加えられたということでしょうかね。やはり小早川隆景宛ての光秀書状は偽文書だと思いますね。

あと、『国書総目録』に何か載っているかどうかですね。私は持っていないのでわかりません。

なお、同じ隆景宛て光秀書状が別の史料に収録されているとのことですが、それはどんな史料でしょうか? 不勉強なもので、ご教示いただけると幸いです。

同じ文書が別の史料にも収録されていることはよくあることで、それはこのケースでも同じでしょう。その別の史料が一次史料なら話は別ですが、おそらく編纂史料、それも比較的新しいものではないでしょうか。
2007/04/23(Mon) 22:45 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
追加情報
Tm.さん

先ほどのコメントはあまりに調査不足でしたので、少し追加情報を。

桑田忠親『明智光秀』(講談社文庫)によれば、『別本川角太閤記』は内閣文庫所蔵とありました。

内閣文庫は現在、国立公文書館ですので、そのサイトの以下のURLにアクセスして下さい。

http://www.archives.go.jp/owning/index.html

その検索欄に「川角太閤記」というキーワードを入力すると、6点ヒットします。ちなみに、『別本川角太閤記』ではヒットしません。

上記6点のうちのどれかが『別本川角太閤記』なのでしょうかね。よくわかりません。
そこで、『大日本史料』の同書の記載してあるところを見ると、ひとつ気づきました。巻数表示がないのです。
別本ではない『川角太閤記』だと、ちゃんと巻数があるのに、別本にはないというのは大きいヒントではないかと思いました。

上記6点のうち、5冊本と2冊本があるなか、1点だけ1冊本があります。これが別本であるかどうか。もっとも、活版とありますので、和綴じ本数巻を1冊にまとめた可能性もありますので、何とも言えません。

あるいは、他所へ移動した、紛失した可能性もないとはいえません。

とりあえず、わかるのはそれくらいです。
2007/04/23(Mon) 23:09 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
筒井家記?
桐野先生へ

問題の史料は、7~8年前、国会図書館にて『筒井家記』を探していたときに偶然見つけたものです。
結局、『筒井家記』なるものは見つからずじまい(八切止夫氏の創作か?)でしたが、確か『増補・筒井家記』のうちの一冊ではなかったかと記憶しています。
その後、東大史料編纂所で探索をと思いつつそのままになってしまっています。


>常識的に考えると、江戸時代初期(元和年間か)に成立した
 とされる『川角太閤記』(現存しているのは幕末期の写本
 ですが)の一変種といいますか、写本の一種で、その成立の
 過程で、創作が加えられたということでしょうかね。

『別本』が先か問題の史料が先なのか、さらには別の出典となる史料がある(あった)のか興味を抱きつつ今に至っている次第です。
2007/04/24(Tue) 04:46 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
読み比べ&感想
おはようございます。
ご紹介いただいた谷口克広氏の近刊、早速読んでみました。
谷口氏の場合、いろいろな議論を大ざっぱに分類して、引用・検討する史料も絞り込んでしまっているため、「そう言い切ってしまっていいのかな」と引っかかってしまうことが多く、できるだけ多くの先行研究や史料の内容を盛り込んで、深く考察する方法をとっている桐野さんの御著書の方が私にとっては読みやすかったのですが、それはともかく、細川父子にあてた自筆覚書を最重視し、この史料を徹底的に分析するのが真相への近道とする趣旨は、大いに共感できるものでした。
ただ、細かい部分ですが、下記の点は非常に気になりました。

(1)斎藤利三問題について、高柳光寿氏の『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)で「本当にあったこととは考えられない」と否定的な見解が出されており、谷口氏も『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、1995年)で、この問題を他の怨恨説とともに「事実として認めるわけにはいかない」と切り捨てていたのに、なぜかそれを無視していること。

(2)光秀の享年についても、『織田信長家臣人名辞典』で「活躍の時期や子の年齢から推測すると五十五歳以上とは考えにくい」としていたのに、なぜか正反対の議論が展開されていること。

(3)織田・長宗我部対立の原因を"信長の四国政策の転換"に求める根拠は、軍記『元親記』のみであるにもかかわらず、この点については史料批判が十分でなく、他の記述とバランスを欠いていること。

『織田信長家臣人名辞典』の編纂は本当にすばらしい業績だと認識しておりますので、特に整合性については大事にしていただきたいなあ、と感じました。

2007/04/24(Tue) 07:08 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
増補筒井家記
Tm.さん、どうも。

返事が遅くなりました。
『増補筒井家記』にも同文がありますか。
そういえば、同記の謄写版の複写を持っていたような記憶がありますが、ちょっと出てきません。

同記は原蔵が内閣文庫(国立公文書館)で、東大史料編纂所にも謄写版が架蔵されているようです。
同所データベースで検索すると、イメージ画像が見られますが、デジタル化されているのは乾・坤の二巻のうち、坤巻だけですね。坤巻は天正11年、つまり信長死後から始まっていますので、役に立ちません。
しかし、デジタル化するのにどうして順番どおりやらないのか不思議ですが。

そういえば、おぼろげに思い出したのですが、『別本川角太閤記』の例の小早川隆景宛て光秀書状、どれかの写本にこれだけを挟み込んであったというのが、発見のいきさつではなかったでしたっけ? これも桑田忠親さんか誰かが書いていたような記憶がありますが、定かではありません。

http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller

2007/04/28(Sat) 22:48 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
イエズス会史料
板倉さん、どうも。

返事が遅くなりました。

>(1)斎藤利三問題について

すなわち『稲葉家譜』の信頼性の問題になりますが、高柳光寿氏の説の影響はいまだ大きいですね。高柳氏は一次史料以外はすべて俗書という切り方をしていますが、果たしてどうなのか?
何度も申しますが、『稲葉家譜』を俗書の範疇に入れるのはどうかと思っております。
もう一度、史料(一次,二次を問わず)の再検討が必要かも知れませんね。

あと、谷口さんが『織田信長家臣団辞典』と矛盾する記述をしているとのご指摘。私もいくつか気づいておりましたが、仮説には修正や変更がありうると思います。また同辞典の全面的な改訂版の刊行を予定していると、ご本人からもうかがっておりますので、その折には、それらの食い違いが相当解消されるのではないでしょうか。辞典の改訂はなかなか大変なので、現時点では手順前後になっているのではないかと思います。

あと、個人的には、イエズス会関係史料の取り扱いがあまりはっきりしていないのではないかと感じています。
同史料はあまり信頼できないとしながら、けっこう活用している部分が見受けられます。そのあたり、もう少し使い分けの基準を明らかにしてもらえたらと思いました。





2007/04/28(Sat) 23:00 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
光秀姉・照子
桐野先生どうも。

先生はご存知でしょうか?最近情報を得たのですが、稲葉一鉄の居城が在った大垣市曽根町にある曽抗山圓徳寺には、同寺第七世道善法師の元へ明智光秀の姉照子が嫁いだという寺伝があるそうです。

道善法師と三人の子息(長男正宗、二男範光、三男範頼)は天正十年六月十三日の山崎の合戦に参戦し、長男正宗討ち死にし、道善法師も七月七日没なので捕らえられ殺された可能性が高く、二男範光、三男範頼は落ち逃れてのち安八郡に住み、杉山、野村という姓を其々名乗り現在も子孫の方がおられ、幼かった四男が正宗を名乗り圓徳寺第八世を継いだとのこと。

照子といえば一般には光秀の室とされる女性であり『綿公輯録』にいう妻木範熈の娘(熈子)のことだと思われますが、範光、範頼の名にはその範熈を思わせるものがあり、寺伝を信ずれば光秀は妻木氏であったということになりそうですが、室の姉の誤伝とも言えそうです。
不勉強ながら、照子というのは『絵本太閤記』に記された名であり、熈子が正しいとされるのは妻木範熈の娘だからいうことでなのでしょうか?

ただ問題は、寺伝によればなぜか照子の旧姓は相模であったとのこと。再嫁ではないかとのことらしいのですが「相模の照子」に何かピンと来るものがありませんか。

なにやら光秀の伝説、すなわち彼が確かな史料に登場する以前の経歴が形成される過程の一端を、この圓徳寺の寺伝は窺わせてくれるやに思われますが如何でしょう。
2007/04/29(Sun) 07:02 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
高柳光寿『明智光秀』
桐野さん、こんにちは。レスありがとうございます。

>高柳光寿氏の説の影響はいまだ大きいですね。

非常に古い本ですが、大河ドラマなどから歴史学に興味を持った人には、一次史料の重要性を教えてくれるという意味で、高柳氏の『明智光秀』は格好の入門書だと思いますね。
また同書の最後で、光秀の一生は封建社会下で主君信長の命のままに動いた淋しい人生であったとし、「独立した人格の樹立、それの企画が同時に死であった」と結論する部分は非常に印象深く、今でも傾聴に値するのではないかと個人的には思っています。

>高柳氏は一次史料以外はすべて俗書という切り方をしていますが、果たしてどうなのか?

高柳氏も『原本信長記(信長公記)』『秀吉事記(惟任退治記)』『豊鑑』『川角太閤記』など早期に成立した史料は比較的良質としているのですが、本能寺の変の原因に関してはこれらも含めて切り捨てていますね。
結局、消去法で全部消えてしまうから、戦国武将に関する一般論や当時の情勢から野望(+将来への不安)説を提示しているわけですが、その一般論や情勢分析が果たして妥当かという問題は残ると思います。

>もう一度、史料(一次,二次を問わず)の再検討が必要かも知れませんね。

これに関しては全く同感です。
今のところ、二次史料の記事で裏付けがとれるのは、(これは本書で谷口氏も指摘していることですが)『川角太閤記』の光秀が重臣を説得するセリフ(老後の思い出に)が、自筆書状の内容(早く隠居したい)と符合していることくらいですので、今後の検討課題ですね。

>仮説には修正や変更がありうると思います。

まあそうなんですが、私のように前著を持っている人は少なからずいると思いますので、何らかの言及はあってしかるべきと思うんですよね。
特に斎藤利三の一件については、本書の88ページで「ずっと後の『続武者物語』で作られたと思われる話である」としているわけですから、同じ本の中でも整合性がとれていませんし、やはり問題だと思います。

>また同辞典の全面的な改訂版の刊行を予定していると、ご本人からもうかがっておりますので、

この辞典のよいところは、細かい部分でも典拠史料名をいちいち挙げてくれていることですので、改訂版でもそれは徹底していただきたいですね(^^

>個人的には、イエズス会関係史料の取り扱いがあまりはっきりしていないのではないかと感じています。
>同史料はあまり信頼できないとしながら、けっこう活用している部分が見受けられます。

外国人だから客観的にみれるだろうとするか、偏見が入るだろうとするか・・・。
これもやはり、二次史料の扱いの難しさということに帰結するんでしょうけど、自説に都合のいい部分だけ活用するということにならないよう、注意が必要ですね。

2007/04/29(Sun) 13:51 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
国立公文書館
本日、国立公文書館へ行ってまいりました。
結論から言えば、『別本川角太閤記』らしきものはありませんでした。

職員の方にお聞きしたところ、2冊本の片割れがそうだとのことでしたが、内容は他のものと同じで、<1巻、2巻、3巻(上)><3巻(下)、4巻、5巻>といった構成でしたが、発刊されたのは後巻のほうが早く明治13年、前巻は明治15年で、微妙に体裁も異なっていました。
ただあくまで刊本ですから、それに問題の書状が挿まれていた(付図)されていたとすると、写しにせよ実物であったとは考えづらいのではないでしょうか。
で、改めて同館所蔵の『増補筒井家記』2種を閲覧したところ、やはり件の書状がしっかり載っていました。

『増補』の成立時期については不勉強ながら存じていませんが、こちらを出典として作成された摸本の書状が『別本』とされたものに付図されていたなんてことは考えられないでしょうか。あるいは『大日本史料』の編纂作業において出典の記載に誤りが、例えば『増補』を『別本』と誤認したなんてことは考えられないでしょうか。

また新著において「まったく別の本である」と述べられているあたり、谷口氏は何かご存知ないでしょうか?
2007/05/01(Tue) 16:06 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
別本と増補
Tm. さん、内閣文庫の探索ご苦労様です。

所員の話では、一応「別本~」とされるものはあるようですね。
想像するに、大日本史料第11編の編纂過程で、例の光秀書状が挟み込まれていた写本を他の写本と区別するために、おそらく便宜上「別本~」と名づけただけじゃないでしょうか。
所員が指摘した「別本~」に、光秀書状があったかどうかは確認されたのでしょうか? おぼろげな記憶ですが、挟み込まれていた光秀書状も写しだったと思いますが。

『増補筒井家記』については、私も書誌学的なことはよく知りません。また『別本~』との関係もよくわかりません。
なお、大日本史料の編纂過程で、『増補~』と『別本~』を混同したというのはまずありえないと思います。現に『別本~』が存在しておりますし。

もっとも、大日本史料第11編之1のなかで、光秀書状の出典として『別本~』を載せながら、『増補~』を載せなかったのが、もし見落としのせいだったとしたら、小さくないミスかもしれませんね。

いずれにせよ、二つの史料に光秀書状(写し)が掲載されているという事実はそれなりに重要だろうと思います。だからといって、この書状が本物だとは思いませんが(笑)。

2007/05/01(Tue) 17:27 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
Re.別本と増補
自分自身、不勉強であったのと説明不足であったと思われますので、くどいようですが再投稿をお許しください。

嘉永四年に刊行された『川角太閤記』は、全五巻のうちの三巻之上までであり、明治十三年に我自刊本として残りの部分が出版され、同十五年には改めて前半が出版されたものであり、それが内閣文庫の[請求番号] 168-0056 [数量] 2冊 [書誌事項] 活版 ,明治13年 ~ 活版 ,明治15年になります。
内閣文庫において「別本」と呼ばれているのはその後半部の方であり、「嘉永四年本」に対する続刊としてそう呼ばれているらしく、実は『内閣文庫図書目録』にもそのように記されていました。
したがって『大日本史料』の「別本川角太閤記」とは全く別のものということになります。

桑田忠親氏も、「川角太閤記の成立と内容」(『太閤記の研究 』)においては
  このほかに、写本として伝わる「別本川角太閤記」と
  いうものが一巻あり、少しく流布本と異なる点がある
と記すのみでその所在には触れられていませんが、先の内閣文庫の我自刊本二冊についての説明に続いて述べられていることから、谷口氏が内閣文庫蔵とされたのは誤認であったと考えられます。
で留意すべきは、桑田氏が「少しく流布本と異なる」と述べられていることであり、それは『大日本史料』に収録された部分を指しているのではないかと考えられ、氏もまた現物を確認されていないのではないかと疑われます。

そのうえで『大日本史料』の「別本川角太閤記」というのは、ご指摘の如く、流布本との違いから編者が便宜的にそう名付けたものと考えられそうそうですが、『大日本史料』のそれには、書状とともにその入手経緯が記されており、書状のみが単独で挿み込まれていたとは考えられません。
そこで『増補筒井家記』の問題部分を見ると、誤字脱字と思われる違いはあれど、注記部分の書き方(文字配列)を含めほぼ『大日本史料』と一致しているのです。
もし実際に「別本川角太閤記」なるものが存在していたとすれば、それはかなりの希書であったはずですが、そうした一致をどのように考えるべきなのでしょうか。

ちなみに、国会図書館蔵『増補筒井家記』(写)は、奥書によれば「丁時安政二年(五)月」とのことであり、嘉永四年に『川角太閤記』が刊行されて少しのちのこととなりますが、その『増補』の記述を取り込んだ変種の写本であったとは考えられないでしょうか。

一体、『別本川角太閤記』は何処にあるのでしょうか。
2007/05/03(Thu) 12:00 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
別本川角太閤記は2種ある?
Tm. さん、どうも。

内閣文庫所蔵の川角太閤記諸本の整理、有難うございます。ただ、以下の部分ですが、

>したがって『大日本史料』の「別本川角太閤記」とは全く別のものということになります。

そのように断じてもよいのかどうか、いまひとつよく呑み込めません。
内閣文庫が『別本~』としているのは、明治13年本、同15年本のどちらなのでしょうか。私の頭ではよく理解できずにいます。
もし明治13年本で、川角太閤記の後半部分(第三巻之下以降?)だとしたら、おそらく本能寺の変よりだいぶあとの記述だと思われますので、大日本史料収録の『別本~』とは異なるということなら、一応わかります。
この理解でよろしいのでしょうか?

もしそうだとすれば、内閣文庫の『別本~』は明治期に成立したことになりますね。
ただ、大日本史料収録の例の光秀書状が挟み込んであっただけなら、明治13年本でも矛盾は生じません。本文とは関係ないことになるので。
また、大日本史料編纂にあたって、内閣文庫が付けた史料名を変えてまで収録するのか(混乱を招くのは必至、しかも、史料名変更の説明もない)という素朴な疑問はなお残っています。
内閣文庫の『別本~』と大日本史料の『別本~』は同一のもので、前者に光秀書状が挟み込んであったので、それをその史料名のまま大日本史料に収録した(本文ではなく挟み込みの文書なので、巻数表記もない)とは理解できないでしょうか?

>ちなみに、国会図書館蔵『増補筒井家記』(写)は、奥書によれば「丁時安政二年(五)月」とのことであり、嘉永四年に『川角太閤記』が刊行されて少しのちのこととなりますが、その『増補』の記述を取り込んだ変種の写本であったとは考えられないでしょうか。

『増補筒井家記』についてですが、同書が『川角太閤記』(嘉永四年)の四年後の安政二年に成立しているとのこと、ご教示有難うございます。

となると、内閣文庫所蔵『別本~』よりも『増補~』が先に成立したことになりますね。もしかして、例の光秀書状は『増補~』に先に収録されたことになりませんかね? もしそうなら、『増補~』成立ののち、『別本~』はそれを見て再収録したということになるのか? となると、例の光秀書状は『増補~』が本来の出典ということになるのか?

また大日本史料収録の『別本~』も内閣文庫の『別本~』と同一か否かはともかく、成立はだいぶ下って、明治期の可能性がありますね。例の光秀書状にある大仰な書止文言「誠惶誠恐」、これも敬語や謙譲語が織豊期よりも格段と過剰になった明治期のものだと考えれば納得がいきます。つまり、明治期に作られた偽文書だと思われますね。

なお、手持ちの改訂史籍集覧本の『川角太閤記』には、昌平黌教官の安積信の撰(嘉永四年嘉平月[陰暦十二月の意])と、同年十二月の凡例があります。
そして、末尾に黒川真頼の簡単な解題がついており、その年月日は明治十年八月で、「同十一年九月以浅草文庫御本一校了」と記されています。
さらに、次のように記されています。
「右川角太閤記五巻我自刊我本を以て刊行せり、第壱巻より第三巻まてハ東京帝国図書館本にて一校を経たりといへとも四巻以下ハ異本を得ること能はす、故に原本のまゝ刊行す 明治三十四年三月」

ご参考までに。

2007/05/03(Thu) 20:36 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
訂正
上記の拙文について、少し訂正があります。

『別本川角太閤記』は光秀書状が挟み込んであるだけではないのかとした点について、どうもそうではなく、本文にも『川角太閤記』とは異なる記述があるようです。

高柳光寿『本能寺の変山崎の戦』には次のように書かれています。

「『別本川角太閤記』には、光秀が本能寺の変を報じて毛利家の協力を求めた使者は、三日の深更高松に着いたが、夜暗に誤って秀吉の陣場へ迷い込んで捕らわれたとあり」云々

これによれば、『別本~』は光秀書状が挟み込まれているだけではないようです。
私の記憶違いだったようです。議論を混乱させた点、お詫びします。
2007/05/04(Fri) 02:02 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
今一番知りたいところ
桐野先生どうも。

当初、明治13-5の我自刊本を閲覧したときに、2冊のうちの後半に当たる方が先に出版され、前半が後からの出版であることに疑問を感じていたのですが、桑田氏の論考を読み、嘉永四年に刊行された『川角太閤記』が全五巻のうちの三巻之上までであったことを知り納得するとともに、その続編扱いとして三巻下~五巻の我自刊本が「別本」と称されている理由を知った訳です。

ちなみに、嘉永四年の刊本は鼻から調査の対象外としていたので閲覧しませんでしたが、5冊というのは一巻上、同下、二巻上、同下、三巻上の5冊なのでしょうね。近日中に確認したいと思っています。

>また、大日本史料編纂にあたって、内閣文庫が付けた
 史料名を変えてまで収録するのか(混乱を招くのは必至、
 しかも、史料名変更の説明もない)という素朴な疑問は
 なお残っています。

そもそも、『別本川角太閤記』の所在については長年の疑問であったのですが、図らずも谷口氏の今回の著書に依って内閣文庫の蔵書である事を知ったのですが、内閣文庫のそれはあくまでも『川角太閤記』であって、目録上の説明として便宜的に「別本」と称されている過ぎず、『大日本史料』のそれとは明らかに別のものであり、谷口氏が何を根拠に内閣文庫の蔵書と述べられているのかが今一番知りたいところです。

なお『大日』と『増補』では、書状の後半部分に若干の違いが見られますが、それに依って何か意味合いは違ってこないでしょうか?
  『大日』 且将軍被遂御出□意之条、
  『増補』 且将軍被遂御本意之条、

  『大日』 此宜預御披露者也
  『増補』 此宜預御披露者也

先生は「誠惶誠恐」という文言にお拘りのようですが、件の書状は単に隆景宛というより、将軍である義昭に披露されることをも考えそのような文言が使われたとは考えられないのでしょうか。
2007/05/04(Fri) 10:51 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
光秀書状の不自然さ
Tm.さん、再度のご教示有難うございます。

谷口克広氏の著書だけでなく、桑田忠親氏も以前から『別本川角太閤記』を内閣文庫本だとしていますね。

内閣文庫本であることは確実ですから、同所が所蔵している6点の『川角太閤記』の冒頭部分(巻一)を閲覧されれば、そのうちのどれかに例の光秀書状が収録されているのではないでしょうか。もし収録されていたら、それが『別本~』だということになりますね。

『大日本史料』と『増補筒井家記』の違いを示していただき有難うございます。どうやら同じ写しでも『増補~』のほうが相対的に良質なのではないかと思われます。赤字で示していただいた部分、どちらも『増補~』のほうが自然で妥当な文言ではないでしょうか。

>『大日』 且将軍被遂御出□意之条、

□の部分は欠損というか不明字でしょうか? 闕字は考えにくいですね。不明字なら、「上」を入れて「上意」とすれば意味が通りそうですけどね。

>『大日』 此間宜預御披露者也
>『増補』 此旨宜預御披露者也

これも『増補~』のほうがぴったりきますね。

じつは『増補~』のこの部分と似たような文言の文書があるのに気づきました。
島津義久が将軍義昭側近の細川藤孝に宛てた書状案です。年次・月日は元亀元年七月十六日付です(『島津家文書』1420号)。
その末尾と書止文言は、

「以此旨、宜預御披露候、恐惶敬白」

というものです(同文書1431号も同じ)。

もっとも、文言が似ていても、用法的には非なるものではないかと思います。
それは光秀書状にある「~者也」という表記です。たとえば、この表記は信長文書や秀吉文書でも禁制や起請文を除いて見かけません。信長や秀吉は書状・朱印状などで、下位者に対しては「~候也」を用いるのがほとんどです。
禁制や起請文(領知目録も)では、その末尾の文言(恐々謹言や仍如件などの書止文言の直前の文言)を「~者也」で結んでいることが多いですね。ですから、光秀書状の「~者也」はふつうの書状にはまず見かけない文言なのです。これだけでも不自然な書状だといえます。

書止文言については、上記の島津義久文書は「恐惶敬白」と、かなり厚礼の文言を用いています。これは将軍義昭の全盛時代ですから、義久も最大限の敬意を示し、ご指摘のように、義昭への披露を期待してのものでしょう。

しかし、同じ将軍義昭奏者宛ての義久文書でも、もう少し時代が下って、天正十三年になると、書止文言が「恐々謹言」と薄礼になります。なお、宛所の奏者は真木嶋昭光や一色昭秀です(同文書1431,1432号)。
将軍義昭への披露を期待しているからといって、奏者宛ての書状の書止文言は決して厚礼ではありません。
元亀元年と天正十三年とでは、将軍義昭の政治的地位も異なることも一因かもしれませんが、それでもやはり「恐惶誠恐」はちょっとどうかなと思います。

光秀書状にはほかにも、次のような不自然な表記があります(左側が光秀書状、右側が本来的な表現)

羽柴筑前守秀吉/羽柴筑前守、羽筑、羽藤
将軍/公方様、上様、上意

以上が、私が光秀書状が不自然で偽文書ではないかと考える理由です。
2007/05/04(Fri) 16:42 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
写本ということなので
桐野先生、詳細なるご説明、ご返答ありがとうございます。

>谷口克広氏の著書だけでなく、桑田忠親氏も以前から
 『別本川角太閤記』を内閣文庫本だとしていますね。

そう述べられている文献をお教え願えれば幸いです。
内閣文庫所蔵6点のうち3点は確認済みで、残る3点も刊本ということで同一内容のものである可能性が高いと思われます。

桑田氏も
  写本として伝わる「別本川角太閤記」というものが1巻あり、
と述べられており、唯一の写本である[請求番号] 168-0022(※桑田氏曰く江戸中期以降か)も違うので、内閣文庫にないのはほぼ間違いなく、やはり氏もまた『大日』を参考とし現物を目にはされていない可能性が高いのではないでしょうか。
写本としては他に数箇所の所蔵先があるので、もしかしたらそのなかに在るのかも知れませんが、『大日』の編纂時にそこまで調査に及んだのかという疑問があります。

件の書状(入手経緯の説明を含め)の引用順序が『増補』が先か『別本』先かの問題もありますが、写しを重ねる上で用語や文字の変化もありうるのではないでしょうか。本来「羽柴筑前守」や「羽筑」であったものを分かりやすく羽柴筑前守秀吉としたり、読取れない文字を知っている文字に改めたりと。

いづれにせよ、幕末の編纂史料に収録されたものということで信憑性に疑問があるのは確かですが・・・
2007/05/05(Sat) 01:12 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
追加、差異事項
 『大日』 過テ秀吉ノ陣ノ邊ヲ行ルヲ
 『増補』 過テ秀吉ノ陣ノ邊ヲ行ルヲ

 『大日』 秀吉有披見大井ニ驚彼者ノ首ヲ刎ラル
 『増補』 秀吉有披見大井ニ驚彼ノ者ノ首ヲ刎ラル
 
2007/05/05(Sat) 07:53 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
桑田忠親氏
Tm.さん、どうも。

桑田忠親『明智光秀』(講談社文庫、1983年)には次のように書かれています。

「この密書は、内閣文庫本の『別本川角太閤記』にその写本が引用されているが、秀吉が、密使を捕え、密書の原本を焼却した際に、その文言を写し取っておいたものが、いつしか何者かの手によって写し伝えられたものであろうと、推測する」

という具合で、桑田氏も内閣文庫本であることは把握していると思います。この文庫の原版は新人物往来社の同名本(1973年刊)です。これも所蔵していたはずですが、どこかにしまい込んだのか出てきません(泣)。

なお、桑田氏の記述の後半部分の推測は的はずれではないかと思います。オリジナルを焼却したので、うろおぼえで写し取ったから、ちょっと文章や文言がおかしいのもしかたないと、自説に都合がよいようにエクスキューズしているようにも見えます。

ほかの著作にも、内閣文庫本だとする記述はありそうですけど、その実、実物がよくわからないというのが何とも。
東大史料編纂所にかつて勤務した桑田氏や高柳光寿、奥野高広氏などは別本をじかに見たのではないかと思うのですけどね。
2007/05/05(Sat) 15:48 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
Re.桑田忠親氏
桐野先生、本日改めて国立公文書館へ行って参りました。

少なくとも現在、同館の蔵書に『別本川角太閤記』なるものは無いようです。
『大日本史料』が編纂された当時』(昭和2年)の蔵書状況も調べるのは難しく、ただ移動や紛失はまず考え難いとのことですから、昭和40年代に桑田氏がそう断定的に述べられているのはやはり疑問と言わざるを得ません。
あとは昭和15年(1940)に同氏が出版された『豊太閤伝記物語の研究』に何か載っているどうかですが。

ちなみに東大史料編纂所の『増補筒井家記』は内閣文庫蔵の謄写本とのことですから、もし『別本川角太閤記』なるものが存在していたら、同じく謄写本が製作されていても良いのではないでしょうか。
ただその時期が『大日よりも後の昭和17年とのことですから、断片的な写し取りの過程で原典名を誤ってしまい、なおかつ作業者が異なる為、訂正がなされぬまま今日まで来てしまった可能性もあるのではないでしょうか。
現に、これまで多くの研究者の方々がそれを引用しながら、誰も気付かれなかったくらいですから。

いずれにせよ、当時を知る関係者の方がお亡くなりになってしまっている以上、もはや調べようがないのですが。
2007/05/07(Mon) 16:52 | URL  | Tm. #-[ 編集]
ヨコから失礼します。

これは周知のことですが、『別本川角太閤記』に所収されている六月二日付け小早川左衛門佐殿充て惟任日向守書状写は、『大日本史料』第十一編之一、17頁に収録されています。
ただし、この惟任日向守書状写は、桐野さんも述べられているように明らかに偽文書だと思います。
Tm.氏は、この惟任日向守書状写には未だにこだわっているようですが、これは当該期の古文書と比較してみても、あるいは古文書学上からも論議の余地がないほどの偽文書です。
たとえば、本文の「羽柴筑前守秀吉」との表現は当該期の古文書からみれば可笑しいです。桐野さんの指摘のごとく、羽柴筑前守、あるいは羽筑、羽柴藤吉郎、羽藤と書くのが普通です。
また、「将軍」とあるのは足利義昭を想定した文言だと思いますが、当該期の文書で征夷大将軍を指す場合には「公方様」あるいは「上意様」あるいは「公儀」と記すのが普通です。「将軍」と直接的な表現は全くあり得ないと思います。

ついで、「今月二日、於本能寺、誅信長父子」との文言では、「於本能寺」と具体的な場所を書くことも可笑しいです。これは、後世において信長が横死した場所が余りにも有名なため、惟任日向守書状を本物らしく見せるため、ことさら「於本能寺」と強調したまでのことと思います。

これは蛇足ですが、「此間宜預御披露者也」の文言では、惟任日向守が披露を求めた先は将軍義昭ではなく、宛名小早川左衛門佐(隆景)の主家毛利輝元だと思います。

さらに、本文の書留には「誠惶誠恐」とありますが、これも当該期の古文書からみれば全く異質な文言です。恐々謹言、恐々敬白、恐惶謹言、恐惶敬白などとするのが正しいです。


ところで、『別本川角太閤記』の件ですが、『大日本史料』の編纂時に史料たる『増補筒井家記』と『別本川角太閤記』を間違えることはあり得ないことだと思います。
また、『大日本史料』が和装の活版本(いわゆる活字本)を史料として採用することもあり得ないことだと思います。嘉永四年に刊行された『川角太閤記』や、明治13年ないし15年に活版された「我自刊我書」本の『川角太閤記』など、版本や活字本は対象外だと思います。

『大日本史料』に収録されている『別本川角太閤記』は、いわゆる写本からの採用だと思います。
他の機関には『川角太閤記』の写本を所蔵する所もあるようなので、あくまでも惟任日向守書状写にこだわるのであれば、それら写本の閲覧をお勧めします。

駄文で失礼しました。
2007/05/07(Mon) 17:12 | URL  | 春長軒 #-[ 編集]
別本川角太閤記のありか
Tm. さん、春長軒さん、どうも。

Tm. さん、再度の内閣文庫調査、お疲れさまです。
やはり該当する写本はなかったのですね。
う~ん、謎が深まりましたね。

春長軒さんの古文書学的な解説、有難うございます。例の光秀書状の披露先が将軍義昭ではなく、毛利輝元だというご意見、なるほどと思いました。

もっとも、Tm. さんも光秀書状が本物だとこだわっておられるわけではないと思います。所蔵先がどこなのか、『増補筒井家記』にも同じ光秀書状が収録されているのはなぜか、『別本~』とどんな関係にあるのかという点に謎解き的な関心がおありではないかと思います。

『大日本史料』に収録され、もしかしたら、昭和初期に編纂を担当されたかもしれない桑田忠親氏が内閣文庫所蔵の写本だと断言されている。しかも、内閣文庫側は移動や紛失は考えられないという。同文庫が所蔵する『川角太閤記』6点のうち、刊本・版本を除いた写本にも該当する箇所が見つけられないという調査結果のため、Tm. さんは果たして真相はどこにあるのかという疑問をお持ちのようです。

私としては何ともいえませんし、国家事業である『大日本史料』編纂に初歩的なミスがあるとも思えません。あるいは、内閣文庫所蔵の写本をすべて隅から隅までチェックする必要があるかもしれません。補遺的に載っている可能性もありますし。

それと同時に、『増補筒井家記』に同じ光秀書状が収録されていたというのは、管見の限り、これまで聞いたことがなかったので、とても興味深いです。また写本としてはこちらのほうが良質そうだというのもまた面白いです。
偽文書である点には、どなたもそれほど異論がないところだと思いますが、その伝来状況が単純ではない面がありそうで、それなりに興趣があるように思われます。
2007/05/07(Mon) 18:33 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
春長軒さん、はじめまして。
桐野先生にもご弁護頂いてますが、自分も同書状の信憑性自体に拘っている訳ではありません。当日付けの書状において「今月二日」と記すのも可笑しなことですし。

問題は、『大日』に収録されたものと全く同じ状態で『増補』に記載されているという事実なのです。しかもそちらの方がより良質らしいという点も。

どうやら内閣文庫蔵の『増補』に奥書は無い様で、国会図書館の写本の
  丁時安政二年五月 飛州益田郡在 竜田良元記
というのが成立年次および著者ということになるのでしょうか?
この竜田良元なる人物が問題の書状を捏造したのか、あるいは彼も写し取っただけなのか興味のもたれるところです。

写本の悉皆調査となるともはや個人の趣味としては不可能であり、ましてや偽文書らしいとなれば研究の対象としてそれほどの価値があるのかどうか。
何方か史学科の学生さんが卒論のテーマにでも採り上げてくれれば良いのですが。
2007/05/07(Mon) 20:37 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
大日本史料稿本
桐野先生、興味深いことに気が付きました。

東大史料編纂所のデータベースにて「大日本史料稿本」を拝見しますと、『増補』の問題箇所の前後の文章が確りと採録されているのです。
ということは、問題箇所についても関係者の方は知っていたハズなのではないでしょうか。

にも係わらず『大日本史料』では『別本川角太閤記』のみが採録史料として挙げられ、なおかつその所在が不明である。
謎は深まるばかりですが、「史料稿本」自体は明治前期の制作らしく、
  現在の研究水準からみて訂正すべき箇所も少なく
  ありません。
とのことですから、その時点で史料名が取り違えられ、高柳氏らもその所在を掴めぬまま『別本』として掲載されたのではないでしょうか。

刊行された分の『大日』の「史料稿本」が見られないのが残念であり、そこにどのように史料名が記されているのかが注目されるのですが・・・
2007/05/09(Wed) 20:34 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
見ましたが
Tm.さん

ご紹介の大日本史料稿本データベースを見てみました。
天正10年6月3日まであるのに、肝心の同4日条の『増補筒井家記』はないんですね。そのあと、天正14年に飛んでいて、少しがっかりしました。
100点以上のファイルがあったので、どうしようかと思いましたが、何とか6月2日付の『増補~』は見つけられました。
ここまで編纂過程がわかっているのですから、ご指摘のように、当然編纂官も同4日付を確認した確率は高いと思います。

それにしてもこの稿本に本能寺の変当日条があったのにはびっくりしました。どうやら同史料の10編収録の予定で作られたようですね。
11編の天正10年6月4日~同13年12月晦日までがすっぽり抜け落ちているのはなぜなんでしょうね。考えられるのは、同14年に正親町天皇が譲位し、後陽成天皇が即位する節目になっているからではないかと思いますが……。

ともあれ、史料綜覧だけでなく、~稿本もいろいろ使えそうですね。
2007/05/09(Wed) 23:21 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
修正兼見卿記
桐野先生へ

刊行された『大日』では正・別の区別表記は為されていないようですが、「稿本」において『別本兼見卿記』が『修正兼見卿記』と記されているの点、興味がもたれます。

>11編の天正10年6月4日~同13年12月晦日までがすっぽり
 抜け落ちているのはなぜなんでしょうね。

刊行済みの『大日』あるいは『綜覧』を参考にするようにとのことなのでしょう。
むしろ「稿本」に6月1日の条がないのが不思議です。

>ともあれ、史料綜覧だけでなく、~稿本もいろいろ使えそう
 ですね。

膨大分量であり閲覧するには大変な労力を必要とするのは必至ですが、『大日』の未刊部分に何か新知見があるのではないでしょうか。的を絞って検索するのも一つの手ですね。
2007/05/10(Thu) 05:14 | URL  | Tm. #GDMnerkk[ 編集]
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