歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第249回
―「古来よりの国風」貫く―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は生麦事件の3回目、最終回です。
主に、久光主従とイギリス側の動きを中心にまとめました。
惜しむらくは、紙数の関係で、もう一方の当事者である幕府側、神奈川奉行所の動きを書けなかったことです。

若干補足しておきますと、当時の神奈川奉行所のトップは阿部越前守正外です。旗本(高3000石)でしたが、のちに陸奥白河藩10万石の阿部家を継いで大名となり、老中まで上りつめる人物です。
阿部は事件発生を知るや、外交上の一大事だと考え、事態解決のため、久光主従が宿泊する保土ヶ谷宿に使者を送り、しばらく同宿に滞在するよう要請します。しかし、薩摩藩側は英国から抗議があれば、我が藩が対応するので、幕府に対して累を及ぼすことはないとして拒絶します。つまり、薩摩藩は幕府の頭越しに英国と直接交渉するというわけですから、幕府の国家主権を否定したに等しいわけです。

阿部は怒って、非常手段に出ます。まず小田原藩に命じて箱根関所を閉鎖し、久光主従の行列が西上できないようにしたいと幕府に上申書を提出します。
幕府はその頃、朝廷対策で頭を痛めており、薩摩藩の協力を不可欠にしていたので、阿部の強硬措置は久光の機嫌を損ね薩摩藩の態度を硬化させると考え、阿部の越権行為だとして譴責処分にします。
そのため、久光主従は難なく箱根関所を越えて帰京することになります。

阿部の箱根関所封鎖はもともと神奈川奉行の管轄外ですから無理だったと思いますが、幕府も京都政局とのからみで、薩摩藩に対して強い態度に出られませんでした。
翌年、薩英戦争になり、薩摩藩は大きな痛手を被りますが、和平交渉で薩摩藩は英国と直接交渉することになり、その対外的な地位を高め、諸外国への認知度をも高めました。

阿部は事件の翌月、外国奉行に転じます。譴責処分を受けた割には栄転ではないかと思います。
阿部といえば、慶応元年(1865)、老中として数千の幕兵を率いて、朝廷を圧迫し京都政局を一挙に転換しようとした行動が有名です。また兵庫開港を無勅許で強行しようとして、朝廷から譴責・罷免され、一時、将軍家茂が辞職を口にする事態となったことでも知られます。
盛時のような幕府権力の行使を当然と考える正統的な幕臣・譜代大名だったといってよい人物です。

次週10日は新聞休刊日で休載です。
17日になりますが、町田久成を取り上げたいと思っています。9月15日(旧暦)が町田の祥月命日ですので、それにちなんだ企画です。

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【2012/09/03 17:55】 | さつま人国誌
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