歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨日、鹿児島から帰京。

14日に城山観光ホテルで講演会。日本福祉施設士会の九州ブロックからお招き。一般参加者も含めて多数おいでいただきました。

演題は「西郷隆盛と坂本龍馬」。
西郷や龍馬ゆかりの史跡について、鹿児島・奄美だけでなく京都や土佐の写真も含めてスライドショーも。
いわずもがなだったかもしれないが、「船中八策」や「世界の海援隊」はフィクションということも話した。

城山観光ホテルは近年何度も宿泊しているが、いまだかつて館内の展望温泉に入浴したことがない。もったいなくてトホホです。
翌朝の朝食で、初めて朝カレーを食す。最近いろんなホテルで朝カレーが出ているが、これまで食べたことがなかった。

ホテルに鹿児島の友人、Y口さんが迎えに来てくれ、同行してまた史跡取材。
彼は事前に取材予定地を調査してくれ、車両停車場所なども含めてロケハンしてくれる。また資料まで揃えてくれているから、とても有難い。
今回もメインの取材地になると思われた清水城の縄張り図、発掘調査報告書などもコピーしてくれていたので、とても助かった。
今回は残暑が厳しく、あちこち駆け回ったため、暑がりの私は汗みどろになった。
また昼前後は桜島の降灰に悩まされ、15:00頃からは台風の影響か、雨にも降られて晴れ男の異名も台無しになった(笑)。

今回、もっとも印象に残ったのは、日新斎・貴久以前の島津氏の居城だった清水城跡と、蒲生にある江戸時代後期の街道、掛橋坂である。
清水城は6代氏久から14代勝久までの約160年間、島津本宗家の居城だった。近年、にわかに脚光を浴び、城郭研究者の泰斗である村田修三氏や三木靖氏なども訪問調査されている。すでに石垣が存在していたことが知られていたが、密林の奥にあるため、そこまで行けるかどうか危ぶまれた。
すると最近、見学会があったらしく、登山ルートがきれいに伐採されていたので、難なく登れた。

しかし、前途に大きな敵がいた。伐採作業のときに山道に落とされたと見られるスズメバチの巣があり、ハチが群がっていた。
私は十数年前、関ヶ原の島津退き口踏破のとき、1度スズメバチに左くるぶしを刺されるという痛い体験をしたことがあり、2度目に刺されると、異常なアレルギー反応を起こし、下手をすれば死に至るケースもある。だから、スズメバチが出やすい夏場の山城歩きはなるたけ避けていたのだが……。
しかし、ここで引き下がっては、せっかくの清水城の石垣が見られない。意を決して山道の片隅をスズメバチを刺激しないよようにソロリと歩いて、何とか窮地を脱した。帰路も同様である。
写真はスズメバチの巣と清水城の石垣。
スズメバチ清水城石垣

石垣は高い所では3メートル以上はあると思われた。野面積みよりも精巧な石組みである。また隅が算木積みになっている箇所もあった。
あくまで門外漢の印象だが、戦国期よりも新しいのではと感じた。かといって、織豊期や近世にここに城郭が築かれたという話は知らない。
憶測だが、貴久が内城を造営するまでに一時的に入城したのか、あるいは内城が平地の屋形造りで防備が弱いため、その詰めの城として新たに普請されたのか。いずれにしても、今後の究明が待たれる。

もうひとつは、蒲生(現・姶良市)にある掛橋坂である。
これは近年、発見された江戸時代後期の古道。これまでほとんど知られていなかったそうだが、姶良市が整備したので、訪問しやすくなった。
大きな岩盤を開削した石畳の往還である。当時の技術では困難な掘削作業だったはずで、その苦労が偲ばれた。岩盤には石ノミの痕が残っており、明らかに人工的に開削されたことがわかる。
鹿児島の古道は、白銀坂や龍門寺坂が有名だが、掛橋坂は今後、大きな注目を浴びるだろう。
掛橋坂道標掛橋坂石ノミ

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今回訪問した史跡は以下のとおり。
よく1日で回れたと思うが、これでも、いつもより少ないかもしれない。

ザビエル上陸地(祇園洲公園)
石橋公園(西田橋など)
稲荷川河口
西南戦争官軍兵士墓地
祇園洲砲台跡
薩英戦争記念碑
島津重冨荘
琉球人松
多賀山公園
肝付兼重奮戦の碑
東郷平八郎遺髪墓・銅像
東福寺城跡
春日神社(薩藩水軍軍港跡)
森有礼生誕地石碑
伊東祐亨生誕地石碑
大乗院橋(再建)
今和泉島津家下屋敷跡
桐野利秋邸宅跡(明治期)
島津氏五代墓(本立寺跡)
鶴嶺高等女学校校舎跡
稲荷神社
泗川新寨戦三勇士之碑
大乗院磨崖梵字
清水城跡(石垣・櫓台など)
桐野利秋生誕地
別府晋介生誕地
名越左源太屋敷跡
矢上城跡(南北朝期の矢上高純居城)
桂庵玄樹の墓
川田神社
川田家歴代墓(川田義朗など)
川田城跡
丹後局腰掛石
花尾神社
丹後局の墓/僧永金の墓
丹後局荼毘所
後醍院宗重の墓
花尾かくれ念仏洞
西山宗知師の墓(一向宗僧侶)
都迫の念仏かくれ窟
桐野利秋の田廬跡碑(吉田開墾地)
掛橋坂
伝相良八代実長夫妻の墓

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【2012/09/16 11:23】 | 歴史紀行
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脱帽
ながお
桐野様

こんにちは。
先月帰省の折、1日だけ鹿児島市に行きましたが、回れたのは、南洲墓地、同顕彰館、石橋公園などほんの数箇所でした。プロのお仕事だし、事前準備があればこんなに回れるのですね。脱帽で~す(笑)。
石橋公園よかったです。
                

こんばんは
桐野作人
ながおさん

あれだけ回るには、やはり事前準備が必要ですね。また私の独力だけではとても無理です。
今回も鹿児島の友人に協力してもらいました。

花尾神社
木脇moひろみ
明けましておめでとうございます。
本年も桐野さんのご健康とご活躍をお祈りします。

さて、昨秋に「花尾神社」に行かれたそうですが、ここには、戦国時代の木脇祐秀の享保時代の子孫・木脇祐盛が留守居役をしていた頃のミッションで京都で制作た扁額が現存しており(宮司様に確認済み)、現物を確認しに行きたく思っている場所です。
また、今年は薩英戦争から150年。色々な史料が表に出てくることを楽しみにしています。

本年もどうぞ、宜しくお願いします。

花尾神社
桐野
木脇moひろみさん

明けましておめでとうございます。
本年もよろしく。

花尾神社、昨秋行きました。
ただ、境内散策と本殿外観を見学しただけで、扁額は拝見しておりません。
知っていたら、ぜひ見たかったですね。

史料を見ていると、時折、幕末の木脇啓四郎の記事を見ます。
最近では、『斉彬公史料一』478頁に「御茶道職木脇藤渕(後啓四郎)」云々と茶釜の模製を作っているような記事がありました。
小松帯刀の書簡にも登場しますね。
あと、戦国関係では、島津義久の側室?か女房衆と思われる小侍従という人が木脇祐光の室になったという記事もありましたが、この人は祐秀の親戚でしょうか?

取り急ぎご挨拶まで。

桐野作人




木脇祐秀と木脇祐光は別支流
木脇moひろみ
桐野作人様

質問へのご回答が遅くなりすみません。

■戦国の「木脇祐秀」と「木脇祐光」の関係
関係姓を示す史料には未だ出会っておりません。
便宜上、木脇姓を「祐秀系」と「唐湊系」と呼んでいます。
・「木脇祐光」の流れは「唐湊の木脇」。
・幕末の「木脇啓四郎」は「唐湊系の分家」です。
(この2つの系統から遡る支流も存在有り)
※「唐湊系」については、丹羽謙治先生の『薩摩藩文化官僚の幕末・明治 木脇啓四郎「萬留」』に翻刻された系図が掲載されています。

■誤解しやすい天正時代2つの「木脇祐昌」
ここで、誤解されやすい戦国時代「木脇祐昌」についてご紹介させてください。
次の①と②は「別人」です。
系統も異なります。

①木脇祐秀系の木脇祐昌
・木脇刑部左衛門祐秀の父「木脇刑部左衛門祐昌」は肥後八代「花山城主」(地頭)。
・天正13年8月10日、甲斐宗運二男に攻め入られ討死。

②唐湊の木脇系の木脇祐昌
・天正13年5月5日生まれ。「木脇源次、後に伊東二右衛門」。
・幕末・木脇啓四郎はこの唐湊系の分家。

以上、ご回答させていただきました。

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この記事へのコメント
脱帽
桐野様

こんにちは。
先月帰省の折、1日だけ鹿児島市に行きましたが、回れたのは、南洲墓地、同顕彰館、石橋公園などほんの数箇所でした。プロのお仕事だし、事前準備があればこんなに回れるのですね。脱帽で~す(笑)。
石橋公園よかったです。
                
2012/09/18(Tue) 14:40 | URL  | ながお #-[ 編集]
こんばんは
ながおさん

あれだけ回るには、やはり事前準備が必要ですね。また私の独力だけではとても無理です。
今回も鹿児島の友人に協力してもらいました。
2012/09/19(Wed) 20:20 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
花尾神社
明けましておめでとうございます。
本年も桐野さんのご健康とご活躍をお祈りします。

さて、昨秋に「花尾神社」に行かれたそうですが、ここには、戦国時代の木脇祐秀の享保時代の子孫・木脇祐盛が留守居役をしていた頃のミッションで京都で制作た扁額が現存しており(宮司様に確認済み)、現物を確認しに行きたく思っている場所です。
また、今年は薩英戦争から150年。色々な史料が表に出てくることを楽しみにしています。

本年もどうぞ、宜しくお願いします。
2013/01/01(Tue) 16:22 | URL  | 木脇moひろみ #-[ 編集]
花尾神社
木脇moひろみさん

明けましておめでとうございます。
本年もよろしく。

花尾神社、昨秋行きました。
ただ、境内散策と本殿外観を見学しただけで、扁額は拝見しておりません。
知っていたら、ぜひ見たかったですね。

史料を見ていると、時折、幕末の木脇啓四郎の記事を見ます。
最近では、『斉彬公史料一』478頁に「御茶道職木脇藤渕(後啓四郎)」云々と茶釜の模製を作っているような記事がありました。
小松帯刀の書簡にも登場しますね。
あと、戦国関係では、島津義久の側室?か女房衆と思われる小侍従という人が木脇祐光の室になったという記事もありましたが、この人は祐秀の親戚でしょうか?

取り急ぎご挨拶まで。

桐野作人


2013/01/01(Tue) 20:21 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
木脇祐秀と木脇祐光は別支流
桐野作人様

質問へのご回答が遅くなりすみません。

■戦国の「木脇祐秀」と「木脇祐光」の関係
関係姓を示す史料には未だ出会っておりません。
便宜上、木脇姓を「祐秀系」と「唐湊系」と呼んでいます。
・「木脇祐光」の流れは「唐湊の木脇」。
・幕末の「木脇啓四郎」は「唐湊系の分家」です。
(この2つの系統から遡る支流も存在有り)
※「唐湊系」については、丹羽謙治先生の『薩摩藩文化官僚の幕末・明治 木脇啓四郎「萬留」』に翻刻された系図が掲載されています。

■誤解しやすい天正時代2つの「木脇祐昌」
ここで、誤解されやすい戦国時代「木脇祐昌」についてご紹介させてください。
次の①と②は「別人」です。
系統も異なります。

①木脇祐秀系の木脇祐昌
・木脇刑部左衛門祐秀の父「木脇刑部左衛門祐昌」は肥後八代「花山城主」(地頭)。
・天正13年8月10日、甲斐宗運二男に攻め入られ討死。

②唐湊の木脇系の木脇祐昌
・天正13年5月5日生まれ。「木脇源次、後に伊東二右衛門」。
・幕末・木脇啓四郎はこの唐湊系の分家。

以上、ご回答させていただきました。
2013/01/20(Sun) 23:27 | URL  | 木脇moひろみ #-[ 編集]
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