歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨年、武蔵野大学(武蔵野校舎の生涯学習センター)で開かれたオムニバス歴史講座「薩摩と明治維新」の第2次講座が今年も開かれることになった。

現在、受講者を募集中です。
詳しくはここをご覧下さいませ。

講師は次の面々。私以外は有名人の子孫だ(笑)。

島津晴久(重富島津家当主)
大久保利泰(大久保利通曾孫)
榎本隆充(榎本武揚曾孫)
桐野作人


全4回講座で有料だが、4回とも受講すれば1回分お得らしい。
私の講座の日時とテーマは、

6月30日(土)13:00~14:30
天璋院篤姫と幕末薩摩藩について


来年の大河にちゃっかり便乗させてもらってます(笑)。
ドラマの歴史的背景、とくに薩摩藩の特殊事情がよくわかるかも、と積極的に考えていただけると幸いです。

昨年は平日午前中という、もっとも集客しにくい条件だったにもかかわらず、毎回定員を超える100人以上の申し込みがあり、一部の方には受講を断ったほどだというから、今年は思い切って、さらに多くの方に受講してもらおうということになり、土曜日午後と格段に条件がよくなった。
でも、キャパ400人は多すぎないかな。ほかのお三方はともかく、とても私めは自信がありませぬ。

そんなわけで、首都圏にお住まいで薩摩に興味のある方、お時間のある方、慈悲心をお持ちの方は受講をご検討下さい。

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【2007/04/21 22:56】 | 雑記
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板倉丈浩
こんにちは。
私は慈悲深くはないのですが(笑)、昨日第1回を受講しました。
会場は大学の教室に変更されており、当日受付でも入れました。
島津晴久氏は名家の出らしく上品な感じで、斉彬・久光の面影をよく受け継いでいるように見受けられました。
で、気がついたことなどをいくつか。

・大久保氏・榎本氏も来場されていて、ご紹介がありました。
・雨が降ると吉兆だという「島津雨」。話の導入はやはりこれでした。
・鹿児島を中心に一門(重富・加治木・垂水・今和泉)と一所持(日置・花岡・宮之城・都城)がそれぞれ同心円的に配置されているようです(地図で見るとよくわかる)。
・初代忠久の頼朝落胤説について、「私どもの系図では・・・」「学問的には・・・」と両方説明がありました。
・島津氏は蒙古襲来までは鎌倉常駐。竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』に3代久経が描かれ、旗に十字紋が使われている。
・貴久~義弘時代の戦争の説明では、ただ人を斬っていたばかりではなく、供養碑の建立など、敵味方を差別しない死者に対する回向があったことに言及。
・朝鮮出兵に関して「明の史書に"鬼"島津と書かれた」という説明は疑問でした(漢語では「鬼」とは幽霊のことだから、日本のように勇猛だから鬼と呼ぶことはないと思う・・・)。
・OHP投射された関ヶ原合戦図屏風(井伊家所蔵のもの)で、島津隊の位置がわからず、「どこだ、どこだ」と虫眼鏡で探し出されたのには思わず苦笑。前に出て教えてあげたい衝動に駆られました(笑)。確かにこの図屏風の島津隊の位置は通説とは違っているのですが・・・。
・江戸・幕末期の説明は駆け足。その中で「地元では大久保利通は名誉回復したが、調所笑左衛門と川路利良はまだ」という指摘が印象に残りました。そうか、まだなのか・・・。
・最後に晴久氏の4代前にあたる島津珍彦(久光の子)そして典姫(斉彬の娘)の写真を紹介。写真を見るとどんな人だったのか気になってしまうので、時間切れが残念でした。


島津晴久氏の講演
桐野
板倉さんこんばんは。

武蔵野大学の講座のご報告有難うございました。

このシリーズの講師のうち、私以外は全員出席されていたのですね。一番の若僧が欠席とはと、ほかの方々に思われたかも(笑)。

島津さん、OHPを利用されたんですね。前回は誰も使いませんでしたが。あるいはレジュメ代わりだったのでしょうか?
そういえば、前回、写真の紙焼を演台に貼られましたが、小さくて見えなかったことがありました。とくに珍彦氏を初めとする一族の写真を見せるにはよかったかもしれません。

私のときも、パワーポイントでも使おうかなと思っていますが、じつはよく使いこなせなかったりします(爆)。せめて、スライドショーくらいはやりたいと思っています。

調所笑左衛門と川路利良の地元での名誉回復。
島津家全体が調所への贖罪意識があるなら、その名誉回復への障害はほとんどないと思います。ほとんど島津斉彬との関係だけですから。
川路は銅像こそ建ちましたが、一般レベルでの意識の変化というのはどうでしょうか? それよりも、意識の退化というか、歴史の記憶が次第に薄れていくことのほうが問題かも知れません。

川路利良
ばんない
ご無沙汰しておりました

島津晴久氏が斉彬と久光の面差しを受け継いでいるという点のコメントはパスして(苦笑)

鹿児島県はともかく
警察庁内での川路の権威というのは今でも絶大のようですね。
最近よくテレビに出演している警察OBの北芝健氏は、派出所勤務時代に「鹿児島まで帰りたいんですが、今手持ちの金がない」と駆け込んだ中年男性に
(鹿児島といえば初代総監の出身地、悪い人ではないだろう)
と思いこみ、数万円をポケットマネーから貸したそうですが…その男は寸借詐欺師だったらしく、そのお金は二度と戻ってこなかったそうで(苦笑)

川路の地元での悪評については、川路の性格とかやり口に加えて、郷士vs城下士の対立も影を落としているという認識なのですが、少なくとも警察庁は鹿児島県出身者には門戸が広かった時期があるようで、そういう点では地元に貢献していると思うんですけど…最もそれだけしか地元に貢献してないかも知れないが。

郷士と城下士
桐野
ばんないさん、お久しぶりです。

川路利良の銅像は鹿児島県警前に堂々と建っていますが、場所が場所だけに、さすがにいたずらする人はいないようです(笑)。
ちょっと前に天保山にある坂本龍馬・お龍の新婚旅行の碑がペンキを塗られるいたずらがされたことがありましたが、川路銅像に手を出す大胆な者はいないでしょうね。ちなみに、今年は西南戦争130周年ですが(笑)。

郷士と城下士の対立というご指摘、仰せのとおりだと思います。川路は厳密に言えば、与力座身分で、島津家の被官扱いであり、郷士よりさらに格下です。昔でいえば、足軽身分ですね。

その川路が出世したのは西郷の推挙があったと言われていますから、鹿児島の私学校党から見れば、川路は恩知らずということになるのでしょう。もっとも、こうした見方は多分に公私混同気味だと思いますが。ふつうは国家公務員として、とくに大警視として国家の治安を預かる者なら、そう簡単に辞職するわけにはいかないでしょう。

その一方で、川路は大久保の知遇も得ています。大警視になれたのも大久保の力に預かっていると思います。
西郷と大久保の両雄から引き立てられた川路は、身分は低くても相当優秀だったといえるのではないでしょうか。

私学校党と川路の関係が決定的に悪化したのは、やはり、西南戦争直前に川路が配下で鹿児島出身の巡査たちを視察のために帰国させたことでしょうね。
もっとも、国家の治安を預かる者としては、政情不安地域に部下を派遣するのは、当然の情報収集活動だと思います。
「視察」を「刺殺」だなんて、子供だましのごまかしもいいところで、私学校党に捕縛された巡査たちを拷問して得られた「供述」ですからね。挙兵の名分がなかった私学校党が無理やりでっち上げた可能性が高いでしょう。
そのシナリオを書いたのが誰か、ある程度絞られると思いますけどね。少なくとも、西郷と桐野は関わっていません。西郷は小根占で猟をしていますし、桐野は吉野の開墾地で畑を耕していましたから。

川路が郷士出身の巡査を鹿児島に送り込んだのは、彼らの城下士への反感を利用したからだと言われていますが、果たしてそうなんでしょうかね?
巡査はほとんど郷士ばかりで、城下士はまずいないでしょう。城下士はほとんどが近衛兵ですからね。川路の手駒は郷士しかいなかったわけで、それほど意図的なものだとも思えませんがねえ。

川路の鹿児島での評判の悪さは、むしろ西南戦争後に形づくられた気もしますね。歴史的敗者のアイデンティティを維持するためにも、誰か悪役が必要だったと思います。
それというのも、西南戦争で負けたとはいえ、城下士出身の私学校党はかなり生き残っているわけで、彼らはその後も、鹿児島の政治・行政・教育など主要な分野を占めました。川路嫌い、西郷全面賛美はそういう勢力によって形成された面もあるのではないでしょうかね。

なお、今の県知事さんは私と同じ郷里で、戊辰戦争の重要な従軍記録を残した有名な郷士の子孫です。先祖は西南戦争直前、従軍を拒否して私学校党にいじめられ、川路とも仲がよく、政府軍に降伏したときには川路に降伏していますけど、今は西郷復権の先頭に立っておられるようで、皮肉なものです。票に響くんでしょうかね?

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この記事へのコメント
こんにちは。
私は慈悲深くはないのですが(笑)、昨日第1回を受講しました。
会場は大学の教室に変更されており、当日受付でも入れました。
島津晴久氏は名家の出らしく上品な感じで、斉彬・久光の面影をよく受け継いでいるように見受けられました。
で、気がついたことなどをいくつか。

・大久保氏・榎本氏も来場されていて、ご紹介がありました。
・雨が降ると吉兆だという「島津雨」。話の導入はやはりこれでした。
・鹿児島を中心に一門(重富・加治木・垂水・今和泉)と一所持(日置・花岡・宮之城・都城)がそれぞれ同心円的に配置されているようです(地図で見るとよくわかる)。
・初代忠久の頼朝落胤説について、「私どもの系図では・・・」「学問的には・・・」と両方説明がありました。
・島津氏は蒙古襲来までは鎌倉常駐。竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』に3代久経が描かれ、旗に十字紋が使われている。
・貴久~義弘時代の戦争の説明では、ただ人を斬っていたばかりではなく、供養碑の建立など、敵味方を差別しない死者に対する回向があったことに言及。
・朝鮮出兵に関して「明の史書に"鬼"島津と書かれた」という説明は疑問でした(漢語では「鬼」とは幽霊のことだから、日本のように勇猛だから鬼と呼ぶことはないと思う・・・)。
・OHP投射された関ヶ原合戦図屏風(井伊家所蔵のもの)で、島津隊の位置がわからず、「どこだ、どこだ」と虫眼鏡で探し出されたのには思わず苦笑。前に出て教えてあげたい衝動に駆られました(笑)。確かにこの図屏風の島津隊の位置は通説とは違っているのですが・・・。
・江戸・幕末期の説明は駆け足。その中で「地元では大久保利通は名誉回復したが、調所笑左衛門と川路利良はまだ」という指摘が印象に残りました。そうか、まだなのか・・・。
・最後に晴久氏の4代前にあたる島津珍彦(久光の子)そして典姫(斉彬の娘)の写真を紹介。写真を見るとどんな人だったのか気になってしまうので、時間切れが残念でした。
2007/05/27(Sun) 10:11 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
島津晴久氏の講演
板倉さんこんばんは。

武蔵野大学の講座のご報告有難うございました。

このシリーズの講師のうち、私以外は全員出席されていたのですね。一番の若僧が欠席とはと、ほかの方々に思われたかも(笑)。

島津さん、OHPを利用されたんですね。前回は誰も使いませんでしたが。あるいはレジュメ代わりだったのでしょうか?
そういえば、前回、写真の紙焼を演台に貼られましたが、小さくて見えなかったことがありました。とくに珍彦氏を初めとする一族の写真を見せるにはよかったかもしれません。

私のときも、パワーポイントでも使おうかなと思っていますが、じつはよく使いこなせなかったりします(爆)。せめて、スライドショーくらいはやりたいと思っています。

調所笑左衛門と川路利良の地元での名誉回復。
島津家全体が調所への贖罪意識があるなら、その名誉回復への障害はほとんどないと思います。ほとんど島津斉彬との関係だけですから。
川路は銅像こそ建ちましたが、一般レベルでの意識の変化というのはどうでしょうか? それよりも、意識の退化というか、歴史の記憶が次第に薄れていくことのほうが問題かも知れません。
2007/05/27(Sun) 22:15 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
川路利良
ご無沙汰しておりました

島津晴久氏が斉彬と久光の面差しを受け継いでいるという点のコメントはパスして(苦笑)

鹿児島県はともかく
警察庁内での川路の権威というのは今でも絶大のようですね。
最近よくテレビに出演している警察OBの北芝健氏は、派出所勤務時代に「鹿児島まで帰りたいんですが、今手持ちの金がない」と駆け込んだ中年男性に
(鹿児島といえば初代総監の出身地、悪い人ではないだろう)
と思いこみ、数万円をポケットマネーから貸したそうですが…その男は寸借詐欺師だったらしく、そのお金は二度と戻ってこなかったそうで(苦笑)

川路の地元での悪評については、川路の性格とかやり口に加えて、郷士vs城下士の対立も影を落としているという認識なのですが、少なくとも警察庁は鹿児島県出身者には門戸が広かった時期があるようで、そういう点では地元に貢献していると思うんですけど…最もそれだけしか地元に貢献してないかも知れないが。
2007/06/02(Sat) 18:08 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
郷士と城下士
ばんないさん、お久しぶりです。

川路利良の銅像は鹿児島県警前に堂々と建っていますが、場所が場所だけに、さすがにいたずらする人はいないようです(笑)。
ちょっと前に天保山にある坂本龍馬・お龍の新婚旅行の碑がペンキを塗られるいたずらがされたことがありましたが、川路銅像に手を出す大胆な者はいないでしょうね。ちなみに、今年は西南戦争130周年ですが(笑)。

郷士と城下士の対立というご指摘、仰せのとおりだと思います。川路は厳密に言えば、与力座身分で、島津家の被官扱いであり、郷士よりさらに格下です。昔でいえば、足軽身分ですね。

その川路が出世したのは西郷の推挙があったと言われていますから、鹿児島の私学校党から見れば、川路は恩知らずということになるのでしょう。もっとも、こうした見方は多分に公私混同気味だと思いますが。ふつうは国家公務員として、とくに大警視として国家の治安を預かる者なら、そう簡単に辞職するわけにはいかないでしょう。

その一方で、川路は大久保の知遇も得ています。大警視になれたのも大久保の力に預かっていると思います。
西郷と大久保の両雄から引き立てられた川路は、身分は低くても相当優秀だったといえるのではないでしょうか。

私学校党と川路の関係が決定的に悪化したのは、やはり、西南戦争直前に川路が配下で鹿児島出身の巡査たちを視察のために帰国させたことでしょうね。
もっとも、国家の治安を預かる者としては、政情不安地域に部下を派遣するのは、当然の情報収集活動だと思います。
「視察」を「刺殺」だなんて、子供だましのごまかしもいいところで、私学校党に捕縛された巡査たちを拷問して得られた「供述」ですからね。挙兵の名分がなかった私学校党が無理やりでっち上げた可能性が高いでしょう。
そのシナリオを書いたのが誰か、ある程度絞られると思いますけどね。少なくとも、西郷と桐野は関わっていません。西郷は小根占で猟をしていますし、桐野は吉野の開墾地で畑を耕していましたから。

川路が郷士出身の巡査を鹿児島に送り込んだのは、彼らの城下士への反感を利用したからだと言われていますが、果たしてそうなんでしょうかね?
巡査はほとんど郷士ばかりで、城下士はまずいないでしょう。城下士はほとんどが近衛兵ですからね。川路の手駒は郷士しかいなかったわけで、それほど意図的なものだとも思えませんがねえ。

川路の鹿児島での評判の悪さは、むしろ西南戦争後に形づくられた気もしますね。歴史的敗者のアイデンティティを維持するためにも、誰か悪役が必要だったと思います。
それというのも、西南戦争で負けたとはいえ、城下士出身の私学校党はかなり生き残っているわけで、彼らはその後も、鹿児島の政治・行政・教育など主要な分野を占めました。川路嫌い、西郷全面賛美はそういう勢力によって形成された面もあるのではないでしょうかね。

なお、今の県知事さんは私と同じ郷里で、戊辰戦争の重要な従軍記録を残した有名な郷士の子孫です。先祖は西南戦争直前、従軍を拒否して私学校党にいじめられ、川路とも仲がよく、政府軍に降伏したときには川路に降伏していますけど、今は西郷復権の先頭に立っておられるようで、皮肉なものです。票に響くんでしょうかね?
2007/06/02(Sat) 23:31 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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