歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第51回
―東京国立博物館の創設―

24日(月)に連載が更新になりましたが、お知らせが遅くなりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は、町田のライフワークといってよい上野の博物館創設までのいきさつを簡単に書きました。
当時の名称は、ただの博物館で、その後、帝国博物館、帝室博物館と改称するようです。
また所管もよく変わり、町田自身も大学(文部省)から内務省へと異動になっています。

ところで、今回は紙数の関係で削除した部分がありました。
それは町田が英国留学から帰国したのちの動向です。とりわけ、慶応3年(1867)後半、大政奉還から王政復古政変に至る時期、町田がどんな考えをもっていたかという点です。
土佐藩の在京重役寺村左膳の手記によれば、町田が倒幕挙兵には「不同意の者」で「西郷の挙動は児戯に等し」と述べたと伝えています。町田が武力発動には慎重で、土佐藩の立場に近かったことがうかがえます。
ただ、寺村が自分たちに都合よく解釈した可能性もあるので、多少割り引いて考える必要があるかもしれません。町田は一所持という門閥出身で大目付という重職にあることから、そのような考えを抱いたのでしょうか。

つまり、町田の立場は西郷や大久保とは異なっていた可能性が高いわけですが、維新政府が発足すると、町田はすぐさま三職のひとつ、参与に任命されています。この時点では、小松・西郷・大久保と同等の地位にあったわけです。維新政府がいわゆる「倒幕派」と「公議政体派」の連合政権だったといわれますが、そうした実情を反映したものだったのでしょうか。
その後、同等だったはずの地位が他の3人とかなり開いてしまいます。町田は外国事務局(要は外務省です)の次官相当である小松の部下になります。町田と同役は、五代友厚・寺島宗則・後藤象二郎・井上馨・大隈重信といった、錚々たるメンバーです。

それでも、結局、町田は彼らの後塵も拝してしまいます。
維新政府の中核である薩摩藩の門閥出身で、小松と叔父甥の関係という立場にありながら、政治家としての町田はあまりパッとせず、その後は文部・内務官僚の道を歩むことになりました。
町田がなぜ出世コースからはずれたのか、幕末慶応期の政治的な立場が影響しているのかどうか不明ですが、いまもってよくわかりません。

次回は、町田がなぜか出家し、遁世の道を歩んだことを書きます。

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【2012/09/27 08:10】 | さつま人国誌
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感想など
ばんない
こんばんは。
前回の記事にも書きましたが、全3回の連載、興味深く拝見しました。

久成の母親が学問に熱心だったというのは、興味深かったです。しかもこの当時余り女が触れるべからずと思われていた漢籍というのが面白かったです。島津斉彬の母も学者並みの人で有名だったようですね。この当時流行だったのでしょうか。

ところで、小松帯刀の養子になったものの、後に追われるように小松家を去った弟・申四郎の行方はやっぱり分からなかったのでしょうか。

明治維新後は、階級闘争に加え藩閥の闘争にも巻き込まれて、最後は政務に嫌気が差していたような雰囲気も伺えます。
島津久光の死後3年後に出家したという所に、古風な価値観を持っていた人のようにも思われます。

お墓、写真で見る限りでは寒々しいですね。

町田申四郎
桐野作人
ばんないさん

町田申四郎のその後についてですが、宮崎県高岡町(幕末期だと日向国穆佐郷あたりで薩藩領)に住んでいたようで、同町に墓があるそうです。墓石には「町田棟」と彫ってあるそうです。

そのことについては、いちき串木野市の英国留学生記念館のサイトに記事があったのですが、一度中断したこともあり、現在見られるかどうかわかりません。
私はそのURLを保存していましたが、見られませんでした。


管理人のみ閲覧できます
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町田棟
ばんない
こんばんは。御教示ありがとうございます。

町田棟の墓の件ですが、この記事でしょうか(URL参照)。
写真もくっきり映ってます。

しかし、別記事に寄りますと、留学後ここに至るまでの過程はやはり謎のようです。


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この記事へのコメント
感想など
こんばんは。
前回の記事にも書きましたが、全3回の連載、興味深く拝見しました。

久成の母親が学問に熱心だったというのは、興味深かったです。しかもこの当時余り女が触れるべからずと思われていた漢籍というのが面白かったです。島津斉彬の母も学者並みの人で有名だったようですね。この当時流行だったのでしょうか。

ところで、小松帯刀の養子になったものの、後に追われるように小松家を去った弟・申四郎の行方はやっぱり分からなかったのでしょうか。

明治維新後は、階級闘争に加え藩閥の闘争にも巻き込まれて、最後は政務に嫌気が差していたような雰囲気も伺えます。
島津久光の死後3年後に出家したという所に、古風な価値観を持っていた人のようにも思われます。

お墓、写真で見る限りでは寒々しいですね。
2012/10/10(Wed) 00:58 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
町田申四郎
ばんないさん

町田申四郎のその後についてですが、宮崎県高岡町(幕末期だと日向国穆佐郷あたりで薩藩領)に住んでいたようで、同町に墓があるそうです。墓石には「町田棟」と彫ってあるそうです。

そのことについては、いちき串木野市の英国留学生記念館のサイトに記事があったのですが、一度中断したこともあり、現在見られるかどうかわかりません。
私はそのURLを保存していましたが、見られませんでした。
2012/10/10(Wed) 09:15 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2012/10/10(Wed) 22:42 |   |  #[ 編集]
町田棟
こんばんは。御教示ありがとうございます。

町田棟の墓の件ですが、この記事でしょうか(URL参照)。
写真もくっきり映ってます。

しかし、別記事に寄りますと、留学後ここに至るまでの過程はやはり謎のようです。
2012/10/10(Wed) 23:06 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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