歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第256回
―子女と辛苦を共にする―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は、御屋地の後編です。
御屋地と子どもたちについて書きました。
嫡男久賀が露梁海戦で額に矢傷を受けるという重傷を負いながら、義弘の手当で事なきを得ました。
この戦いで、義弘みずから家来たちの手当をしたというのはほかにも事例がありますね。
一番有名なのは、「薩摩の今弁慶」と呼ばれた猛者、木脇休作(諱は祐秀)でしょう。
彼も露梁海戦で、まるで義経の八艘飛びのように船から船を飛び移って戦っていたとき、敵の矢を受けて海に落ち、沈みそうになるところを助けられ、義弘の膝枕で手当されたことを生涯の御恩と肝に銘じ、義弘が他界したとき、殉死しています。その殉死のしかたもすごいです。拙著『さつま人国誌』戦国・近世編をご参照下さい。

もう一人、久松松平家に嫁いだ御屋地の二女ですが、婚家で苦労したようです。
そのせいか、若くして他界しています。
彼女について、母御屋地が弟で藩主家久に所領を与えるよう訴えているのは、この時期の女性の社会的地位を考えるうえでは興味深い史料です。
この訴状は、頴娃久政・渋谷重将に宛てられています。両人は島津家久の側近ですが、末尾に披露を願いたいと書かれているので、事実上、家久宛てです。

そのなかには、ときの中央政権の人質になった島津家の女性たちがその褒賞として知行地を得ている先例が書かれています。
まず、有名な亀寿は1万石(しかも無役)を得ています。
また、御屋地の妹千鶴(御下)も江戸へ人質をなり、3000石(無役)を与えられています。

同様に、徳川家への人質となった自分の娘にも、知行を与えてほしいというのが御屋地の主張です。
この二女は千鶴の帰国と入れ替わりに、藩主家久の養女として上京し、久松松平家に嫁いでいます。事実上、島津と徳川の縁組ですから、その二女にしかるべき褒賞があってもおかしくないという御屋地の主張も妥当です。

ただ、私の不勉強で文意がよくわからない点があります。
この御屋地の訴状は二女の死後に書かれたものです。
文中にある「宝寿院殿」というのが二女の院号だと思われます。これも不勉強で確認できていません(汗)。
この「宝寿院殿」を二女に比定したのは、文中別の箇所に「宝寿院殿養子に申すべきの由、黄門様(家久)より御意にて候」とあるからです。家久が御屋地二女を養子(養女)にしたのは、久松松平家の家譜でも確認できます。
ただ、リンク先のばんないさんの「戦国島津女系図」によれば、彼女の院号は「長寿院」のようで、少し違います。「長寿院」は久松松平家での法名で、豊州島津家では別に供養して別の法名を付けたと考えるべきか? さて、だれに比定すべきか?

問題は、御屋地の訴えの結末がどうなったのかという点。これも時間不足で追跡調査してません。
もうひとつは、すでに他界した二女に知行を与えるといっても、その名跡は誰が継いでいるのかという点です。松平定行との間に生まれた子どもに与えるとなれば、他家に与えることになるわけですね。
それは少し筋違いですから、御屋地は二女の分は豊州島津家に与えられるべきだという主張でしょうか?

不勉強をさらけだしていますが、近世島津家の子女のことはなかなか難しいですね。

次回は何を取り上げるか未定です。

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【2012/11/06 10:49】 | さつま人国誌
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宝寿院
ばんない
こんばんは。後編でも拙HPをご紹介下さり、誠にありがとうございます(汗)
疑問点について、いくつかご参考になれば(既に非公開コメントがあり、その中に書かれていることと重複するかと思いますが、お許し下さい)。

「宝寿院」が誰か?と言うことについてですが、これは島津家久(忠恒)の四男・島津忠広のことです。理由が不明なのですが、当初出家して島津御屋地の養子とされています(参考史料 「薩藩旧記雑録後編」4-1709,1710など)。寛永9年に「含 命為役小角徒、号慶忠坊」と書かれているところから見ると、父・家久の命で山伏になったと思われます。
ところが、家久の死後、異母兄・光久の命で還俗、後に家老となります。更に延宝5年に光久の命で御屋地(この時既に故人)との養子縁組を解消させられ、その翌年に家老を辞任、元禄16年に死去したという人物です。
個人的に気になっている人の一人で、少しだけ考察したことがあります(拙HP「加治木島津家」の項)

故・島津朝久次女(松平定行先室)の政略結婚への褒賞として、御屋地が要求した領地の行く末ですが、「薩藩旧記雑録後編」4-1860に書かれた島津御屋地発頴娃長左衛門、渋谷四郎左衛門宛書状に
 右先例有之儀候間、宝寿院殿江も知行御給候様ニ申度候、(以下略)
とあるところから見て、島津忠広の領地になったのでないかと思われます。ただ、「旧記雑録後編」5-532で「御屋地の領地について息子・久賀の石高に加える」と言う記述が見えますので、当初は御屋地領になった可能性も考えられます。
なお、上の引用では入力が面倒なので略してしまったのですが、続きには「これは私の領地を要求してるわけじゃないからね!」という意味合いのことが書かれているのが面白いです。

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2012/11/07(Wed) 19:29 |   |  #[ 編集]
宝寿院
こんばんは。後編でも拙HPをご紹介下さり、誠にありがとうございます(汗)
疑問点について、いくつかご参考になれば(既に非公開コメントがあり、その中に書かれていることと重複するかと思いますが、お許し下さい)。

「宝寿院」が誰か?と言うことについてですが、これは島津家久(忠恒)の四男・島津忠広のことです。理由が不明なのですが、当初出家して島津御屋地の養子とされています(参考史料 「薩藩旧記雑録後編」4-1709,1710など)。寛永9年に「含 命為役小角徒、号慶忠坊」と書かれているところから見ると、父・家久の命で山伏になったと思われます。
ところが、家久の死後、異母兄・光久の命で還俗、後に家老となります。更に延宝5年に光久の命で御屋地(この時既に故人)との養子縁組を解消させられ、その翌年に家老を辞任、元禄16年に死去したという人物です。
個人的に気になっている人の一人で、少しだけ考察したことがあります(拙HP「加治木島津家」の項)

故・島津朝久次女(松平定行先室)の政略結婚への褒賞として、御屋地が要求した領地の行く末ですが、「薩藩旧記雑録後編」4-1860に書かれた島津御屋地発頴娃長左衛門、渋谷四郎左衛門宛書状に
 右先例有之儀候間、宝寿院殿江も知行御給候様ニ申度候、(以下略)
とあるところから見て、島津忠広の領地になったのでないかと思われます。ただ、「旧記雑録後編」5-532で「御屋地の領地について息子・久賀の石高に加える」と言う記述が見えますので、当初は御屋地領になった可能性も考えられます。
なお、上の引用では入力が面倒なので略してしまったのですが、続きには「これは私の領地を要求してるわけじゃないからね!」という意味合いのことが書かれているのが面白いです。
2012/11/08(Thu) 01:01 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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