歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第257回
―徳川家康の命で短期間―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今年2月、大隅半島を取材したとき、思い立って桜島一周をしました。
降灰が凄さまじく、前を行く車が道路の降灰を巻き上げて、著しく視界が悪くなるほどでした。

桜島東岸の黒神にある大正大噴火で埋もれた鳥居や、林芙美子の記念碑など定番の史跡を見学しましたが、とくに西岸の藤野町にある島津義弘蟄居跡を訪問できたのは大きな収穫でした。
道がよくわからず、付近の人に尋ねようにも、降灰のため人が戸外にほとんど出ておらず、商店で道を尋ねました。そしたら、そこからすぐ近くでした。

『島津国史』などには、義弘が関ヶ原敗戦の責任をとって潔く自発的に桜島に蟄居したように記されています。
しかし、以前から、和平周旋に乗り出した井伊直政が島津方に義弘の遠島で穏便に解決したい旨を伝えていたことを知っていたので、少なくとも義弘の自発的な行動ではないだろうと思っていました。
タイトルは「蟄居」と書きましたが、実態は「流謫」「流罪」とすべきかもしれません。
また『樺山紹釼自記』には、義久が義弘を「生害」させることで、戦後処理を決着させる意向を示していたことが書かれています。

また蟄居期間については、『島津国史』の説がほぼ正しいと思われます。
4月初旬から6月初旬までの2カ月有余だと思います。
7月になると、義弘が活発に活動し、書状の数が急に増え出すこともそれを裏付けているように思われます。

紙数の関係で書き切れませんでしたが、義弘の「蟄居」により、島津と徳川の和睦交渉の前提がととのったといえるのではないか、同時に、義弘赦免の方針も内定したと思われます。

次回は2つ候補があり、どちらにするか迷っています。

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【2012/11/20 22:00】 | さつま人国誌
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山口孝志穂
いいねぇ~

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いいねぇ~
2012/11/22(Thu) 05:21 | URL  | 山口孝志穂 #mQop/nM.[ 編集]
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