歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第260回
―開成所で航海術を教授―

一昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は前回の続きで、万次郎の2度目の来薩を中心に書きました。
この来薩は、薩摩藩が万次郎を開所したばかりの開成所に迎えるためでした。
万次郎は一応幕臣になっていましたから、その招聘には幕府の許可が必要でした。
その交渉には江戸留守居役の新納嘉藤次があたり、5カ月くらいかかってようやく許可を得ます。
鹿児島下向にあたって、万次郎は京都に観光に立ち寄ったり、土佐に帰郷したりしてから、薩摩入りします。
京都では、小松帯刀と会っていることが、小松の大久保一蔵宛て書簡でわかります。
これまでこの書簡は神戸海軍操練所の閉鎖に伴い、坂本龍馬とその仲間たちを薩摩藩が引き取り、龍馬が蒸気船借り受けのため関東に下る一方、他の仲間たちを庇護し、「航海の手先」に使うという記事で有名でしたが、別条に万次郎が鹿児島に向かうことが書かれており、小松が万次郎に航海要員の育成について意見を求めています。

薩摩藩はこの年、元治元年(1864)、蒸気船を一挙に5艘購入していましたから、乗組員の養成は急務でした。万次郎の役割の重要性がわかります。もっとも、万次郎がどのような講義や実習を行ったかはよくわかないのが残念です。誰か航海日誌でもつけていてくれれば面白かったのですが。
断片的にわかるのは、万次郎が航海術の本(英書か)を薩摩藩に提供したことくらいでしょうか。

一方、万次郎とほぼ同時期に鹿児島に向かった龍馬の仲間たち(新宮馬之助・菅野覚兵衛・白峯駿馬など約20名)は鹿児島城下の大乗院の子院威光院に数カ月間収容されました。そののち、長崎に移り、亀山社中の結成になります。
彼らが鹿児島に留まらなかったのは、龍馬の関東での蒸気船入手がうまくいかなったからだと思われます。もちろん、脱藩士の龍馬には資金がなく、蒸気船の購入はむろん借用さえ不可能です。それを支えたのは、以前、私が紹介した龍馬の新出文書に書かれていたように、江戸留守居の岩下佐次右衛門(方平)の援助があったはずです。
龍馬が目的を果たせなかったため、薩摩藩が購入した蒸気船を亀山社中に貸与して交易その他に活用させるという方針転換になったものと思われます。そのためには、鹿児島より内外の交易が盛んな長崎のほうが立地的に便利だったからでしょう。

薩摩藩が万次郎に対してどれくらいの給料を払っていたかで、その処遇の程度も推察されます。しかし、「家内」8人に1カ月7両2分ずつというのがわかるくらいで、肝心の万次郎の給料がわかりません。「家内」分の手当は合わせると、1カ月60両になります。万次郎分はそれより多いのではという気はしますが……。

万次郎の貸与期間は3年でしたが、万次郎は途中、一度土佐に戻り、後藤象二郎の上海行きに随行しており、1年以上鹿児島から離れています。その後、慶応3年(1867)4月に鹿児島に復帰し、半年ほど教官をつとめましたが、11月には鹿児島を離れたようです。
折から、大政奉還から王政復古政変の時期で、薩摩藩と幕府の関係が険悪になっていましたから、幕臣である万次郎も鹿児島には居にくかったのではないかと思われます。

万次郎の墓は5年前、雑司ヶ谷霊園を訪れたときに撮影したものです。青山霊園ほどではありませんが、ここも有名人の墓が多いです。夏目漱石、泉鏡花、小泉八雲、岩瀬忠震、小栗上野介、千葉重太郎、東条英機など。

本来は今回掲載の10日は第2月曜日で休刊日だったのですが、総選挙の関係で発刊日になりました。次回の17日は総選挙の翌日で、総選挙特集になるため、連載はお休みです。
本当は14日が赤穂浪士討ち入りの日なので、その関連の記事を書こうと思っていたのですが、1週間遅れの24日掲載になります。お気をつけ下さい。

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【2012/12/12 10:17】 | さつま人国誌
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