歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第261回
―西郷邸で他藩人も交えて―

本日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は総選挙のため、当初予定の掲載日より1週間遅れてしまいましたが、時節柄、忠臣蔵ネタです。
以前、小学館アカデミー古文書塾「てらこや」の講座で中岡慎太郎の日記を読んだとき、京都の西郷邸で、西郷の弟や後輩たちが中岡や品川弥二郎らも交えて、「赤穂義臣伝」を徹夜で読んだという記事を見て、とてもおかしく感じたのがきっかけで、いつか記事に出来ないかと思っていました。

「義臣伝読み」は記事にも書いたように、郷中教育の年中行事のひとつです。その様子を『元帥公爵大山巌』や『薩摩見聞記』などによって紹介しました。
中岡の日記を読めば、西郷従道、黒田清隆、大山巌、伊集院兼寛、村田新八、椎原小弥太(鳥羽伏見の戦いで戦死)といった、のちの明治政府の要人たちが大まじめに「義臣伝」を輪読し、これに中岡や品川などが付き合わされたという構図がとても面白いです。西郷も用事がなくて加わっていたら、なお面白かったですが。

幕末薩摩関係の史料を読めば、西郷、伊地知などが自分たちの政治活動を太平記(もちろん南朝びいき)になぞらえている傾向が非常に強いですが、赤穂義臣伝もそうした題材のひとつだと思われます。
もともと、郷中教育に義臣伝読みが加わったのは、亡君の仇討ちという忠義観念と、仇討ちまでの艱難辛苦を耐え忍ぶ、いわば、臥薪嘗胆の精神を賞揚する意味合いがあったのだろうと思います。

西郷以下の連中は、鹿児島でこの教育を受けていたわけですが、京都でもそれを実践する精神構造が興味深いですね。年少の頃と違い、読み替えがあるかもしれません。すなわち、忠義観念は天皇へ、臥薪嘗胆は幕府の暴政を堪え忍び、いつかは決起するぞという英気の涵養なのかどうか……。

次回はいよいよ今年最後の連載です。
2つ候補があり、どちらにしようかと迷っています。

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【2012/12/24 19:12】 | さつま人国誌
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ご無沙汰いたしております
NAO4@吟遊詩人
明治維新の原動力(思想的なバックボーン)は、「国学思想」か「大日本史」ではないかと思ってしまうのですが、

実は、意外にも「赤穂義士伝」や「太平記」というのが真実なのかもと思いました。

面白いお話ありがとうございます。

わかりやすさ
桐野
NAO4@吟遊詩人さん

お久しぶりです。

幕末は後期水戸学と国学がいわゆる志士層に思想的な影響力を与えたといわれますが、やはり、インテリ向きですよね。

一般の武士には太平記や忠臣蔵のほうがわかりやすかったかもしれません。

薩摩藩では、西郷たちが湊川神社を創建するなど、南朝の人士の名誉回復や顕彰に非常に熱心ですね。
一方で、徳川慶喜を足利尊氏になぞらえたりしています。


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この記事へのコメント
ご無沙汰いたしております
明治維新の原動力(思想的なバックボーン)は、「国学思想」か「大日本史」ではないかと思ってしまうのですが、

実は、意外にも「赤穂義士伝」や「太平記」というのが真実なのかもと思いました。

面白いお話ありがとうございます。
2012/12/30(Sun) 18:50 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
わかりやすさ
NAO4@吟遊詩人さん

お久しぶりです。

幕末は後期水戸学と国学がいわゆる志士層に思想的な影響力を与えたといわれますが、やはり、インテリ向きですよね。

一般の武士には太平記や忠臣蔵のほうがわかりやすかったかもしれません。

薩摩藩では、西郷たちが湊川神社を創建するなど、南朝の人士の名誉回復や顕彰に非常に熱心ですね。
一方で、徳川慶喜を足利尊氏になぞらえたりしています。
2012/12/31(Mon) 11:19 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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