歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第262回
―出羽花館で夜襲うける―

本日、連載が更新になりました。
今年最後の掲載です。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は、戊辰戦争における薩摩藩での戦死者のうち、唯一の島津氏一門の戦死者である島津新八郎について、その戦死に至るいきさつを書きました。

新八郎は宮之城島津家の二男家の人。当主ではなく跡取りかもしれません。
当主なら、薩摩藩の門閥家(一所持や一所持格の私領主)は通称官名や通称国名を名乗っているからです。たとえば、小松「帯刀」とか島津「安芸」という具合です。新八郎の家は代々、「内記」を通称官名にしているようです。ですから、内記と名乗っていないので、まだ当主ではない可能性があります。記事には当主と書きましたが、要再検討ですね。ただ、同家の史料が少なく、代替わりの時期を特定できません。

さて、新八郎が戊辰戦争に従軍したのは、戦争の後半からです。
折からの北越戦争の激化のため、その増援部隊として派遣されました。ほぼ同時期に西郷吉之助が越後に藩兵を率いて向かっていますが、新八郎たちが少し早かったようです。
番兵何番隊というのは、薩摩藩兵のひとつ。同藩では家格別の部隊編成を採用していました。「城下」と冠するのは鹿児島城下の城下士の部隊です。また「私領」何番隊というのは、門閥家の家来たちで編成された部隊。そして、「外城」や「番兵」は島津氏直轄領の郷(外城)の郷士(外城士)で編成される部隊です。
なお、郷士や私領士の部隊でも、その隊長(小隊長や差引)は門閥家や城下士がつとめました。
ですから、門閥家の新八郎も番兵三番隊の小隊長に任命されたと思われます。

記事にも書いたように、新八郎は明治元年(1868)8月3日に鹿児島を出航し、23日夜に戦死していますから、出陣からわずか20日間、それも初陣での戦死でした。

また、新八郎の戦死の様子も史料によって異なります。どれを信用していいのかわかりませんが、庄内藩や仙台藩側の史料が比較的信がおけるかもしれません。
庄内藩側の『戊辰庄内戦争録』巻三に、新八郎の言動が少し残っています。この史料は紙数の関係で記事では使いませんでしたので、少し詳しく紹介します。
秋田に着いた新八郎たちは大曲の同盟軍を攻めようと南下し、神宮寺(現・秋田県大仙市)の近くの「馬倉」(間倉か)にある台場に着陣します。
その台場は秋田藩が築いたようですが、新八郎は「秋藩胸壁を築き、防禦の手段こそ心得ね、柔惰の至り、穢はしなどと云て胸壁を崩させ、手勢を先陣とし諸手惣攻と定め」たとあります。
新八郎は意気揚々として敵を呑む勢いだったようで、秋田藩が築いた台場を惰弱だと一喝して壊させたとか。
また、新八郎の首級をあげたかもしれない人物として、庄内藩士の土岐市助が戦功の交名にあがっています。
「薩藩島津小平太を打取、其の首を得」
とあります。
「島津小平太」は、伊佐郡佐司(佐志)領主(高2108石)の島津小平太久容のことだろうと思います。小平太は新八郎よりもずっと早く鳥羽伏見の戦いから従軍しており、5月には越後口に出征して北越戦争を戦っています。8月18日段階でもまだ長岡周辺にいるようですから、秋田にいるとは思えません。また、小平太は戦死していないですから、この記事の小平太は新八郎と勘違いしている可能性があります。
となると、新八郎を討ち取ったのは土岐市助になるのかもしれません。

以上、新八郎の戦死の様子について重要な記述でしたが、何せ新八郎と小平太の混同などを考証すると、分量が多くなるため記事では割愛せざるをえませんでした。こちらで補足しておきます。

さて、来年の予定ですが、1月7日掲載です。
西郷隆盛の新出書簡の紹介を拡大版でやる予定です。

本年もご愛読有難うございました。
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【2012/12/31 12:30】 | さつま人国誌
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