歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第263回
―長州の砲撃で多数の死者―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は、文久3年(1863)12月、馬関で起きた薩摩藩船長崎丸が長州藩台場からの砲撃を機に沈没し、28名の溺死者が出た事件の真相を探るものです。

結論からいえば、長州側は砲撃によって沈没したとしていますが、誤認です。
長崎丸は老朽化した蒸気船でした。この航海も若干の貨物の輸送と共に長崎での修理を目的にしていたほどで、機関室やボイラーなどに故障を抱えていました。結果論ですが、その劣悪な状態があだになりました。
濃霧のなか、突如砲撃されたため、長崎丸は退避行動をとろうと全速力で転舵、航行したことが原因で、ボイラーから出火し、船底に積載していた綿に火が燃え移り、焼失してしまったものです。
長州藩の砲撃が沈没の直接の原因ではありませんが、そのきっかけになったのはたしかです。

時間の関係で、先行研究をチェックしなかったのですが、どのような評価になったいるのでしょうか?

長州側はあとから薩摩藩船だとわかったようですが、台場に詰めた兵士たちは勝鬨を上げて喜んだとか。
八月十八日政変の恨みを晴らしたという思いもあったのでしょう。

もっとも、藩当局では薩摩藩と戦争になるのは避けたいと考え、鹿児島に謝罪使を派遣します。
でも、薩摩藩側の判断で、使者は鹿児島城下には入らず、国境に近い阿久根に留められました。城下に使者を入れたら、激昂した藩士たちが使者に何をするかわからないという判断からです。

薩長両藩はこれで一時の小康状態を得ましたが、事件から半年ほどして、京都御所付近で激突します。禁門の変、甲子戦争です。

記事で使用した写真は北九州市門司区にある長崎丸殉難者招魂碑です。
ある友人の方に撮影、提供してもらいました。
大変助かりました。この場を借りてお礼申し上げます。

今回は、大日本維新史料稿本をはじめ、いろいろな史料を見たのですが、ほとんど使えずじまいだったのが残念です。

次回のテーマは未定です。

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【2013/01/09 00:23】 | さつま人国誌
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