歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第265回
―薩英戦争で住民を守る―

昨日、連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

最近はこの連載記事の紹介のときにようやく更新しているのですが、先週はその更新さえ多忙のためできませんでした。

第264回「明治天皇の西郷従道邸行幸」

です。よかったら、この記事も合わせてご覧下さい。

さて、下津畑土塁ですが、以前も少しだけ紹介したことがありました。
今回は、この土塁がいつ、なぜ造られたのか、その規模はどのようなものだったのか、また時間や費用はどれくらいかかったのかという点を可能なかぎり調べてみました。
もっとも、この土塁についての史料はあまり多くありません。それでも、だいぶその輪郭がわかったような気がします。

この土塁に着目したのはだいぶ前からです。とくに記事でも紹介した「旧薩藩御城下絵図」にちゃんとこの土塁が描かれていたのには驚きました。
また、鹿児島の友人のY口さんも関心をもってくれ、以前、その遺構の跡地を案内してくれました。しかし、完全に宅地化しており、その痕跡を見出すことはできませんでした。
私は最初、明治以降の宅地化によって消滅したのかと思っていたのですが、どうやら薩英戦争から数年後には早くも取り崩れたようです。
海岸線に高さ5メートルもの土塁が聳えていたら、目障りこのうえありませんね。さらに戦争相手の英国と和平が成立したのも取り崩しの大きな要因かもしれません。

この土塁が造られたきっかけは記事にも書いたように、城下下町沿岸部の大火が大きいかもしれません。更地になったことにより、大胆な計画を実施できたのだと思います。この下津畑土塁は海から見て鶴丸城の正面にあたっている点も重要かもしれません。
島津斉彬は鶴丸城が海岸線から近いことを海防上の見地から不安視しており、国分への居城移転さえ考えていたほどです。ですから、とりあえずの防御施設として、この土塁が築造されたとも考えられます。

今回よくわからなかったのは、この土塁築造にかかった費用です。『薩藩海軍史』中に記事があったのですが、出典が『新納久仰譜』と書かれておりました。おそらく『新納久仰雑譜』のことだと思ったのですが、その該当条には費用の記事がありませんでした。したがって、やむをえず、『薩藩海軍史』の記事を使いました。

それには、費用として銀2564貫900文(金356両3朱余)かかったとありました。
巨大な土塁にしては少なすぎると感じました。1万両かかってもおかしくないと思いました。
もっとも、私はそのまま書いたのですが、金銀の交換レートを計算すると、おおよそ、

金1両=銀7.2貫

になるようですが、これって、幕末期の貨幣相場としては妥当な数字なのでしょうか?

ともあれ、現存しないものの、貴重で巨大な遺構がいまから150年前に存在していたことをある程度明らかにできたのではないかと思っています。

次回は島津豊久の母について書く予定です。

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【2013/01/22 21:22】 | さつま人国誌
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2013/01/24(Thu) 08:27 |   |  #[ 編集]
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