歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第266回
―帰国した義弘に恨みごと―

連載が28日に更新になっていました。お伝えするのが遅れました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、関ヶ原で壮烈な討死を遂げた島津豊久の母について書きました。
島津義弘が退き口の帰途、豊久の居城佐土原に立ち寄ったことは知られているかもしれませんが、その生母との対面や人質になっていた豊久の姉を返したことなどはあまり知られていないと思います。

生母の生々しい感情を書きとめたのは、兄の樺山忠助(紹釼)です。忠助は佐土原の西、穆佐の地頭で、義弘の帰国を出迎えるために佐土原に来ました。
記事ではわかりにくかったかもしれませんが、生母が義弘に直接恨みごとを述べたのではなく、義弘が佐土原を発ったのち、心おきない兄の忠助に洩らしたものです。やはり本家の義弘に直接述べることは憚られたのでしょう。

次回は今回の続きといいますか、日向国境での島津氏と伊東氏の戦いについて書いてみようかと思っています。

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【2013/01/30 23:05】 | さつま人国誌
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いくつか
ばんない
こんばんは。関ヶ原の合戦時の島津豊久の母の話は、桐野さんの本(『関ヶ原島津退き口』)でも紹介されていましたね。

義弘が一緒に連れて帰ってきた豊久の姉ですが、この時点では既に禰寝重張の妻ではないと考えられます。彼女は天正15年、島津家が豊臣秀吉に負けたときに人質として上洛させられますが、夫・禰寝重張の証人ではなく、父・家久の証人として出たと思われることなどから考えると、この時点で既に離婚していたようです(「本藩人物誌」島津忠直)。離婚理由については史料が無く不明です。

個人的な感想ですが、「惟新公関原御合戦記」に書かれている“涙の対面”は、後世の史料と言うこともありますが、演出が勝っているように感じていました。

樺山忠助は「ちゅうすけ」と読むのですね。そのまま「ただすけ」と読んでました。

写真で佐土原天昌寺跡にある島津家久一家の墓が映っていましたが、樺山善久女の墓がここにあるというのは考えてみれば不思議な話で、彼女は佐土原を遠く離れた知覧で亡くなっており、しかもこの時既に佐土原は島津家久一家の領地ではなく島津以久の系統の領地になっていたのであって、誰がここに彼女の墓を建てたのでしょうね。



豊久の姉
桐野
ばんないさん

コメント御礼。
豊久の姉はすでに禰寝重張夫人ではなかったのでしょうね(死別した?)。
私も禰寝重張の証人という意味で書いたわけではなく、その身分・地位を示したかっただけなのですが、誤解を招くような書き方でした。

忠助はわかりません。ただすけの可能性もあり。うっかりルビ付けしました(汗)。

佐土原の天昌寺跡の墓地は江戸時代につくられた供養墓ではないかと思います。だから、家久夫人だけでなく、豊久の墓もあるかと。
建立主体も永吉家か、新佐土原家かよくわかりませんね。



ばんない
こんばんは。
こちらこそ失礼致しました。

禰寝重張は1629年没なので、離別と私は考えています。ただ、島津家久長女は天正12年(1584年)12月に重張と共に神社に寄付をしていますので(URL参照)、天正13年~15年の間に離婚したと推定できます。

天昌寺、元々は父・家久の戒名を取った「梅天寺」だったのが、豊久が死んで改名したとか言う話もどこかで聞いたような。

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2013/01/31(Thu) 10:09 |   |  #[ 編集]
いくつか
こんばんは。関ヶ原の合戦時の島津豊久の母の話は、桐野さんの本(『関ヶ原島津退き口』)でも紹介されていましたね。

義弘が一緒に連れて帰ってきた豊久の姉ですが、この時点では既に禰寝重張の妻ではないと考えられます。彼女は天正15年、島津家が豊臣秀吉に負けたときに人質として上洛させられますが、夫・禰寝重張の証人ではなく、父・家久の証人として出たと思われることなどから考えると、この時点で既に離婚していたようです(「本藩人物誌」島津忠直)。離婚理由については史料が無く不明です。

個人的な感想ですが、「惟新公関原御合戦記」に書かれている“涙の対面”は、後世の史料と言うこともありますが、演出が勝っているように感じていました。

樺山忠助は「ちゅうすけ」と読むのですね。そのまま「ただすけ」と読んでました。

写真で佐土原天昌寺跡にある島津家久一家の墓が映っていましたが、樺山善久女の墓がここにあるというのは考えてみれば不思議な話で、彼女は佐土原を遠く離れた知覧で亡くなっており、しかもこの時既に佐土原は島津家久一家の領地ではなく島津以久の系統の領地になっていたのであって、誰がここに彼女の墓を建てたのでしょうね。

2013/02/01(Fri) 01:22 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
豊久の姉
ばんないさん

コメント御礼。
豊久の姉はすでに禰寝重張夫人ではなかったのでしょうね(死別した?)。
私も禰寝重張の証人という意味で書いたわけではなく、その身分・地位を示したかっただけなのですが、誤解を招くような書き方でした。

忠助はわかりません。ただすけの可能性もあり。うっかりルビ付けしました(汗)。

佐土原の天昌寺跡の墓地は江戸時代につくられた供養墓ではないかと思います。だから、家久夫人だけでなく、豊久の墓もあるかと。
建立主体も永吉家か、新佐土原家かよくわかりませんね。
2013/02/02(Sat) 16:48 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんばんは。
こちらこそ失礼致しました。

禰寝重張は1629年没なので、離別と私は考えています。ただ、島津家久長女は天正12年(1584年)12月に重張と共に神社に寄付をしていますので(URL参照)、天正13年~15年の間に離婚したと推定できます。

天昌寺、元々は父・家久の戒名を取った「梅天寺」だったのが、豊久が死んで改名したとか言う話もどこかで聞いたような。
2013/02/10(Sun) 00:31 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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