歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第269回
―二見氏が三百年間定番―

18日に連載が更新になったのですが、告知が遅れてすみません。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

このところ、宮崎シリーズですが、今回もその続きです。

高岡郷の近くにある去川関。
タイトルどおり、薩摩街道、東目筋の要所です。
伊勢二見ヶ浦(有名な夫婦岩のある所ですね)から逃れてきたという伝承のある二見氏。
同氏が歴代、去川関の番所に在番していました。
信長に逐われて薩摩まで逃げてきたという伝承が何に基づくのか調べてみたのですが、よくわかりませんでした。

さる友人の研究者から、九鬼嘉隆が秀吉の九州陣で薩摩までやってきたとき、同氏に属していた二見氏が島津氏に仕えた可能性があると指摘されました。敗軍方に仕える事例は少なくないとも教えてもらいました。大変参考になりました。

東目筋といえば、記事にも書いた「東目送り」「永送り」が有名ですが、これって史料で裏付けられるのでしょうかね? 
『鹿児島県史』にも書いてあるので、一応採用しましたが、断定はせず「噂」と書きました。これも正しいのかどうかはわかりません。

その事例として、西郷吉之助とともに薩摩に亡命してきた僧月照の逸話を書きました。
典拠は月照の略伝「清水寺忍向阿闍梨略伝」なのですが、これとてもどこまで信用していいのか。
今回のテーマからはずれるので、それ以上書きませんでしたが、意外と重要な問題かも知れません。

歴史学の常道に従えば、当事者の一次史料をまず基本とすべきでしょうね。
となると、当時、薩摩藩の家老の一人だった新納久仰の日記『新納久仰雑譜』が残っています。
新納は西郷たちを追いつめる結果を招いたため、斉興に従う因循派として評判は芳しくありませんが、島津斉彬の逝去直後の情勢下、井伊大老の幕閣と正面対決できるはずもなく、新納もギリギリの決断だったのではないかという気がします。事なかれ主義といえばそれまでですが、かといって、幕府の命に従い、月照たちを捕縛して差し出すのも忍びないということだったと推測されます。

そして、何より新納の日記には「東目送り」とも「永送り」とも書いてありません。藩庁の正式決定なら、そう記してもいいはずですが、書かれていません。何と書いてあるかというと、

「去りながら、鑁水(月照のこと)等三人そのまま捕へさせ候ては、近衛様御難題なされ候儀も差し見えおり候へば、誠に以て旧来のご由緒柄ご本意候訳合に付き、極内西郷三助へ手都合致させ、今晩中是非船より福山辺へ渡らせ、それより紙屋番所かなり、志布志の方にても忍ばせ、随分お関所出去り候時分見合せ、筑前の者へは最早立ち去り候に付き、足配承り候処ケ様に候間、道筋追尋め候様申し達し候はば、其の上の処は行形りにてこれあるべく内評致す」

引用中、「三人」とは、月照・西郷・平野国臣のことでしょう。後ろに出てくる「筑前の者」も平野でしょう。

これによれば、三人を捕縛すると、近衛家からクレームが来るかもしれないのでできないと書いています。これは重要なポイントでしょう。
月照は近衛家出入りの祈祷僧でしたから、月照を薩摩藩の一存では処分できないと新納は認識しています。

かといって、藩内に月照たちを留めておくと、すでに追及の手を伸ばしている幕閣の手前不都合なので藩外に出てもらうということになるのでしょう。
その行き先について、新納は紙屋番所と志布志をあげています。
紙屋番所は日向野尻にある関所、志布志も当時は日向国に属しています。
注目すべきは去川関の名前が出てこないことです。
しかも、紙屋番所も志布志も、たとえばとして例に挙げているだけであり、確定的なものではありません。
ここからうかがえることは、月照たちにはどんな方法、ルートでもいいからとにかく藩外に出てもらいたいという藩庁の意向ですね。

なお、記事でも紹介した「清水寺忍向阿闍梨略伝」は船で日向法華嶽寺へ潜伏させるとあります。
似たような「月照上人薩摩落ノ顛末」にも、船で日向の某島に至らしめ、薩摩の志士たちがひそかに船で他の島に送り、足跡を滅させる、とあります。

いずれにしろ、これらにも去川関が出てきません。
つまり、「東目送り」「永送り」説はなかなか裏付けがとれないです。

以上から見えてくるのは、藩庁としては月照たちを厄介払いして災難を避けたかったという程度ではないかと思われることです。
西郷が絶望して錦江湾への入水を企てるのも、「東目送り」「永送り」だと知っていたからだとされるのですが、もっと単純に自分の藩から見放された、もうどこにも行くところがないという追いつめられた心情からではないのかという気もします。

話が脱線しました。

次回も日向シリーズの一環といえそうです。
島津忠恒による筆頭老中伊集院幸侃の上意討ちをやります。

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【2013/02/25 01:02】 | さつま人国誌
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東目送り
ばんない
こんばんは。

世間的に「東目送り」で有名なのは月照(+西郷どん)ですが、私的には島津久章でしょうか。
月照はいわゆる「東目送り」の予定は実はなかった可能性が高いようですが、さて久章はどうだったんでしょうか。

>島津忠恒による筆頭老中伊集院幸侃の上意討ち
以前もさらっと取り上げられたような記憶がうっすらあるのですが…更に深く掘り下げるという事になるのでしょうか。楽しみにしています。

島津久章
桐野
ばんないさん

島津久章は島流しの処分だったように記憶しているのですが、これも東目送りだったのでしょうか?

久章
ばんない
こんばんは

具体的な史料が思い出せないのですが、東目送りという処分を聞いて将来に絶望し、乱闘に至った…と言ういきさつだったと記憶しています。
また、ちゃんとした史料名が思い出せたら報告させて頂きます。



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東目送り
こんばんは。

世間的に「東目送り」で有名なのは月照(+西郷どん)ですが、私的には島津久章でしょうか。
月照はいわゆる「東目送り」の予定は実はなかった可能性が高いようですが、さて久章はどうだったんでしょうか。

>島津忠恒による筆頭老中伊集院幸侃の上意討ち
以前もさらっと取り上げられたような記憶がうっすらあるのですが…更に深く掘り下げるという事になるのでしょうか。楽しみにしています。
2013/02/26(Tue) 00:57 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
島津久章
ばんないさん

島津久章は島流しの処分だったように記憶しているのですが、これも東目送りだったのでしょうか?
2013/02/27(Wed) 14:52 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
久章
こんばんは

具体的な史料が思い出せないのですが、東目送りという処分を聞いて将来に絶望し、乱闘に至った…と言ういきさつだったと記憶しています。
また、ちゃんとした史料名が思い出せたら報告させて頂きます。

2013/02/27(Wed) 18:29 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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