歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第278回
―逮捕場所の二説を検証―

13日に連載が更新されました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

山本覚馬の2回目です。
前回予告しましたように、覚馬が蹴上と大坂のどちらで捕虜になったのかの考証です。
その手がかりとしたのは、覚馬を逮捕したと思われる兵具方一番隊の小隊長だった川路正之進(のち大警視川路利良)の従軍記です。

川路の従軍記で注目すべきは次の2点です。

1.川路の部隊は慶応4年(1868)1月7日、鳥羽伏見の戦いで枚方まで進出したが、京都への撤収命令が出て、いったん京都に戻る。そして9日に再出動命令が出て大坂に向かう。
 覚馬が蹴上で捕虜になったのも9日である。そのとき、川路の部隊が蹴上を通過していてもおかしくない。

2.川路の部隊は資金・兵糧・人足などが不足していたため、旧幕方の捕虜9人を「夫卒」として使役していたこと。
 このなかに覚馬も含まれるかもしれない。
 『薩藩出現戦状二』にある兵具方一番隊の戦闘報告書には、同隊が大坂で20人の捕虜を留置していたとある。このなかに前述の9人が含まれているだろうし、「山元角馬」も含まれている。

以上から、川路の部隊が大坂に下る途中、蹴上で覚馬を捕虜にし、そのまま大坂に連行して留置していたのではないかという推定が成立する。
これにより、蹴上説と大坂説を整合的に解釈することは可能。

もっとも、蹴上という場所はやや微妙です。
というのは、蹴上を下ると大坂ではなく、山科に行きます。
この点が私の推定の弱点ですが、これについては、川路の部隊が京都のどこを宿所にしていたのかも不明なので何ともいえません。
個人的には岡崎藩邸に駐屯していたかもしれないと思っているところです。
また覚馬がなぜ鳥羽伏見の戦いから数日たってからも、京都の付近をうろうろしていたかですが、黒谷の残留部隊にいたのか、あるいは洋学塾に残っていたのでしょうかね。そのあたりもよくわかりません。

覚馬が捕虜になった場所にこだわるのは私くらいしかいないかもしれませんが、とりあえずの推定的結論を出したということで終わりにしたいと思います。

覚馬の一件はともかく、川路の従軍記はとても面白いです。
薩摩藩の戦い方の一端がよく表れています。近代的な戦闘方法と、いかにも薩摩隼人らしい戦い方が同居しています。
個人的に興味をもったのは、「はと」です。これは指笛のことで、味方同士の位置を確認したり、何らかの合図に使っていたようです。
また大坂城一番乗りが出来なくなった川路はとても悔しがり、江戸に乗り込むときは徳川慶喜の首を挙げると豪語しています。

次回は覚馬の(下)です。
有名な「管見」の考察をしたいと思っています。
「管見」のヒントはある人物の建白書と関係があるのではと思っていますが。

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【2013/05/14 08:12】 | 信長
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