歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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関ヶ原の名スナイパー柏木源藤
井伊直政の死の衝撃で放浪の旅に


柏木源藤

南林寺由緒墓地(鹿児島市南林寺町)にある柏木源藤の供養塔

 南林寺由緒墓地(鹿児島市南林寺町)の一角に、「武山丈心居士」と刻まれた墓がひっそりと建っている。江戸時代中期の明和六年(一七六九)に建立されたものらしい。
 法名しか刻まれていないが、これは慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦で、島津義弘の窮地を救った柏木源藤の供養塔である(『称名墓志』巻二)。源藤は義弘の家来、川上四郎兵衛忠兄の郎党だった。
 義弘率いる島津勢は関ヶ原合戦で西軍に属したが、武運拙く敗北のやむなきにいたり、義弘は敵中突破による郷里帰還を決断した。いわゆる「島津の退き口」である。
 徳川家康は本陣のそばを猛然とすり抜けた島津勢を見て、腹心の井伊直政や本多忠勝に追撃の下知を発した。
 徳川の精鋭の追撃は凄まじく、さしもの島津勢もその猛追を振り切れず、家老の長寿院盛淳、甥の島津豊久(日向佐土原城主)も義弘の退却を掩護しながら、次々と討死した。
 主戦場から五キロほど南東に離れた牧田あたりで、井伊勢が義ついに弘主従に追いついた。直政(四〇歳)は黒馬に乗り、白糸威の鎧に銀杏の前立のついた甲冑を着け、長刀を携えながら、「何をもたもたしておる。兵庫(義弘)を討て」と大音声をあげた。
 とそのとき、島津勢の一団から源藤が進み出て鉄砲を放つと、弾は見事に直政に命中した。直政はしばらく馬上で激痛をこらえたものの、たまらず落馬した。それを見た源藤は「川上四郎兵衛、討ち取ったり」と、思わず主人の名を叫んだ。郎党の悲しさで自分の名を名乗るのは憚られたのだろう。
 直政の負傷部位と程度は諸説あるが、一番信用できそうな井伊家の記録『井伊慶長記』によれば、弾は直政の右脇腹に当たったものの、頑丈な鎧だったために、弾が跳ね返って右腕(右肘とも)を貫いたという。
 大将の負傷で井伊勢が追撃を断念したために、義弘主従は辛うじて窮地を脱した。源藤の大殊勲だった。ときに源藤、二十二歳という。なお、直政はこのときの負傷が癒えずに、一年半後に他界している。
 この手柄ゆえか、源藤は義弘の隠居所である加治木に住んだ。だが、その後の源藤は不遇だった。『本藩人物誌』には「逼迫して町人にまかりなり、子孫断絶いたし候」とある。
 なぜ源藤は落魄したのか。それをうかがわせるような逸話がある。『旧南林寺由緒墓志』には、源藤が井伊直政の死去を知ってこれを哀れみ、「弔死の志をもって墨染の法衣を身にまとい、廻国修行に郷関を出しが、また帰らず、その終焉の地、果して何処(いずこ)なるか、勇士の末路、憐れにもまた遺憾なり」とある。
 直政の死を知った源藤には、どんな思いが去来したのか。ほんの一瞬の出来事が徳川四天王と勇名を馳せた武将の一命を奪ってしまったことに、世の無常を感じたのかもしれず、それが出家と放浪につながったのだろうか。
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【2007/04/28 18:29】 | さつま人国誌
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ぼっけもん新聞
ようやく念願の記事が拝見できました。
「島津の退き口」で私が印象に残った人物は、「島津奔る」で読んだ「中馬大蔵」です。
思い立ったら即行動という彼の単純な行動は、薩摩人の気風を思わせるには十分な逸話だと思いました。
ただ、他の書籍にて彼の逸話を見ることができないのが残念です。
私は、三年ほど前から故郷鹿児島についての書籍を読み始めました。
これからもこのブログを活用して勉強させて頂きます。


中馬大蔵
桐野
ぼっけもん新聞さん、どうも。

コラム連載はしばらく本欄でもつづけますが、そのうち、南日本新聞サイトでも掲載してくれるのではと思います。そちらもご覧下さい。

中馬大蔵についても、取り上げて見ようかと思っておりました。以前、大蔵の墓の写真も撮影しております。じつは私の親戚の先祖だったりします。

今後ともよろしく。

源藤
びわこ
桐野さま
ご無沙汰してます。

直政を撃った島津隊士の行く末がこういうものだったのかと初めて知りました。

今年、彦根はお城の築城400年祭で今までになく盛り上がっています。
その支援事業のひとつ、10月21日に「戦国の道」語り部ツアー&ウォーク・「赤備え井伊隊追尾!島津(五僧)越えの道」が企画されています。

私もこのイベントのお手伝いをすることになっているのですが、如何せん、三成バカなもので、歴史を勉強しなおす必要に迫られています。
わからないことがあったら、お尋ねするかもしれません。どうぞ、その時は、お力をお貸しください。
よろしくお願いします。





五僧峠越え
桐野
びわこさん、どうも。

ご無沙汰しております。ようこそ。

400年祭関連のイベントが五僧峠越え(島津越え)ウォークですか。面白そうですね。
私にとっては五僧峠越えは因縁の場所。忘れようにも忘れられません。
10年ほど前に関ヶ原踏破(義弘陣所~大坂城まで)をしたとき、五僧峠を下ったところで、スズメバチに刺されました。たしか多賀のあたりまで降りてきたときです。
刺された瞬間、激痛が走って、くるぶしが赤く腫れ上がりました(苦笑)。

五僧越え、イベントとしては面白いと思いますが、ただ、歴史的由緒としてはどうか。個人的には、島津義弘主従はここを越えていないと思います。ここを越えたのは義弘からはぐれた連中(新納旅庵など)ではないかと推定しています。

もし私でお役に立つことがあったら、何なりとお申し付け下さい。



びわこ
桐野さま
早速にとても心強いお返事、ありがとうございます。


五僧越えでスズメバチの洗礼ですか・・・
2度目に刺されると大変だと聞きますから、気をつけてくださいね。

>歴史的由緒としてはどうか。

三成が関ヶ原を古橋まで落ちたルートも諸説ありますが、こういう謎解きみたいな歴史、大好きです。

秋まではどっぷりと島津に浸かることにします。(笑)




島津義弘の逃走ルート
桐野
びわこさん。

スズメバチ、2回目は恐いと聞いていますので、用心しているつもりです。以前も刺されたとき用の応急の処置具を教えてもらいました。太腿にブスッと刺せばいいというやつです。

島津越えのイベントについて。
じつは義弘はここを越えてなかったんだって、と野暮なことを言うのは本意ではありません。
ただ、史実関係は別に押さえておくべきではないかと思っています。

拙著『真説関ヶ原合戦』(学研M文庫)でも、義弘が島津越えをしていないことを、かなり詳しく書いています。また雑誌の記事でも何度か書きました。
高宮の旧家に、義弘の礼状らしきものが残っていますが、署名が「忠平」(若い頃の義弘の初名)となっており、どう考えてもおかしいですね。偽文書だとは申しませんが、こちらに逃げてきた義弘の家来たちが思わせぶりに遺したものでしょう。

イベントの盛会をお祈りします。


柏木玄トウ入道
板倉丈浩
こんばんは。
先日、何気なく『関ヶ原合戦史料集』(藤井治左衛門編、新人物往来社)を見ていたら、こんな記述がありました(P354~357)。


「徳川家康は、十四日朝、岐阜を出発、本隊は旧中山道を西上せしめ、自身は五百の精兵を率いて、木田を船にて渡り、本巣郡柿の木戸に至った頃、島津惟新の鉄砲隊長に襲われ、自害せんとした。

[美濃国雑事記]
川上左京ハ島津父子ヘ進メ、垣ヶ木戸ヘ出迎ヒ、薩摩勢ヲ伏セ置申候。(中略)薩州ヘ十人参リ居リ候唐人ノ内、柏木玄トウ入道ト申候テ、鉄炮ノ名人ト引替ヘ、右ノ玄トウ入道ニ下知シテ、十匁ノ鉄炮ニテ御乗物ヲ左ヨリ右ニ打貫キ候。然ル処、東照宮ニハ、右ノ鉄炮ニテモ御命ニ別状モ無御座候。(以下略)

[藤井評]
この事件は異説多く、真偽の研究を必要とする。ただし垣の木戸における川上左京との事件は事実だったようである。」


この「柏木玄トウ入道」は柏木源藤と同一人物とみて間違いないと思いますが、井伊直政を狙撃した人物に、家康を狙撃したという伝承もあるのは、なかなか興味深いですね。
「十匁ノ鉄炮」を操る「唐人」であったということは、明か朝鮮の出身で大口径銃の扱いに習熟していたのでしょうか。


柏木源藤
桐野
板倉さん、どうも。

ご紹介の家康襲撃の記事、私も興味深いのですが、史実としてはどうかなとも思っています。

じつは拙著「覇戦関ヶ原」(学研、歴史群像新書)のなかでも、家康襲撃説、源藤唐人説、十匁筒説などを取り入れて創作しています。

この続編を書きかけのまま中断しています。編集部からも督促されているのでした。早く手をつけないといけないのですが……

覇戦関ヶ原
板倉丈浩
こんばんは。

>史実としてはどうかなとも思っています。

この『美濃国雑事記』、文体からして20世紀前半の成立と思われますので、歴史学的には史実とは認定しがたいですね。
ただ、関ヶ原を長年研究してきた郷土史家の藤井氏が「事実だったようである」と見解を述べておられるので、地元伝承として、全くの創作でもなさそうなのですが、その後の研究は進んでないようで残念です。

>編集部からも督促されているのでした。

これは、藪蛇でしたか(笑)
ファンの方々も期待していると思いますので、是非とも完結させてください。



R
ゆきりんの先祖かと思った

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コメント
この記事へのコメント
ようやく念願の記事が拝見できました。
「島津の退き口」で私が印象に残った人物は、「島津奔る」で読んだ「中馬大蔵」です。
思い立ったら即行動という彼の単純な行動は、薩摩人の気風を思わせるには十分な逸話だと思いました。
ただ、他の書籍にて彼の逸話を見ることができないのが残念です。
私は、三年ほど前から故郷鹿児島についての書籍を読み始めました。
これからもこのブログを活用して勉強させて頂きます。
2007/04/28(Sat) 22:35 | URL  | ぼっけもん新聞 #-[ 編集]
中馬大蔵
ぼっけもん新聞さん、どうも。

コラム連載はしばらく本欄でもつづけますが、そのうち、南日本新聞サイトでも掲載してくれるのではと思います。そちらもご覧下さい。

中馬大蔵についても、取り上げて見ようかと思っておりました。以前、大蔵の墓の写真も撮影しております。じつは私の親戚の先祖だったりします。

今後ともよろしく。
2007/04/29(Sun) 23:38 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
源藤
桐野さま
ご無沙汰してます。

直政を撃った島津隊士の行く末がこういうものだったのかと初めて知りました。

今年、彦根はお城の築城400年祭で今までになく盛り上がっています。
その支援事業のひとつ、10月21日に「戦国の道」語り部ツアー&ウォーク・「赤備え井伊隊追尾!島津(五僧)越えの道」が企画されています。

私もこのイベントのお手伝いをすることになっているのですが、如何せん、三成バカなもので、歴史を勉強しなおす必要に迫られています。
わからないことがあったら、お尋ねするかもしれません。どうぞ、その時は、お力をお貸しください。
よろしくお願いします。



2007/05/06(Sun) 01:41 | URL  | びわこ #-[ 編集]
五僧峠越え
びわこさん、どうも。

ご無沙汰しております。ようこそ。

400年祭関連のイベントが五僧峠越え(島津越え)ウォークですか。面白そうですね。
私にとっては五僧峠越えは因縁の場所。忘れようにも忘れられません。
10年ほど前に関ヶ原踏破(義弘陣所~大坂城まで)をしたとき、五僧峠を下ったところで、スズメバチに刺されました。たしか多賀のあたりまで降りてきたときです。
刺された瞬間、激痛が走って、くるぶしが赤く腫れ上がりました(苦笑)。

五僧越え、イベントとしては面白いと思いますが、ただ、歴史的由緒としてはどうか。個人的には、島津義弘主従はここを越えていないと思います。ここを越えたのは義弘からはぐれた連中(新納旅庵など)ではないかと推定しています。

もし私でお役に立つことがあったら、何なりとお申し付け下さい。
2007/05/06(Sun) 09:28 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
桐野さま
早速にとても心強いお返事、ありがとうございます。


五僧越えでスズメバチの洗礼ですか・・・
2度目に刺されると大変だと聞きますから、気をつけてくださいね。

>歴史的由緒としてはどうか。

三成が関ヶ原を古橋まで落ちたルートも諸説ありますが、こういう謎解きみたいな歴史、大好きです。

秋まではどっぷりと島津に浸かることにします。(笑)


2007/05/06(Sun) 21:50 | URL  | びわこ #-[ 編集]
島津義弘の逃走ルート
びわこさん。

スズメバチ、2回目は恐いと聞いていますので、用心しているつもりです。以前も刺されたとき用の応急の処置具を教えてもらいました。太腿にブスッと刺せばいいというやつです。

島津越えのイベントについて。
じつは義弘はここを越えてなかったんだって、と野暮なことを言うのは本意ではありません。
ただ、史実関係は別に押さえておくべきではないかと思っています。

拙著『真説関ヶ原合戦』(学研M文庫)でも、義弘が島津越えをしていないことを、かなり詳しく書いています。また雑誌の記事でも何度か書きました。
高宮の旧家に、義弘の礼状らしきものが残っていますが、署名が「忠平」(若い頃の義弘の初名)となっており、どう考えてもおかしいですね。偽文書だとは申しませんが、こちらに逃げてきた義弘の家来たちが思わせぶりに遺したものでしょう。

イベントの盛会をお祈りします。
2007/05/06(Sun) 22:21 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
柏木玄トウ入道
こんばんは。
先日、何気なく『関ヶ原合戦史料集』(藤井治左衛門編、新人物往来社)を見ていたら、こんな記述がありました(P354~357)。


「徳川家康は、十四日朝、岐阜を出発、本隊は旧中山道を西上せしめ、自身は五百の精兵を率いて、木田を船にて渡り、本巣郡柿の木戸に至った頃、島津惟新の鉄砲隊長に襲われ、自害せんとした。

[美濃国雑事記]
川上左京ハ島津父子ヘ進メ、垣ヶ木戸ヘ出迎ヒ、薩摩勢ヲ伏セ置申候。(中略)薩州ヘ十人参リ居リ候唐人ノ内、柏木玄トウ入道ト申候テ、鉄炮ノ名人ト引替ヘ、右ノ玄トウ入道ニ下知シテ、十匁ノ鉄炮ニテ御乗物ヲ左ヨリ右ニ打貫キ候。然ル処、東照宮ニハ、右ノ鉄炮ニテモ御命ニ別状モ無御座候。(以下略)

[藤井評]
この事件は異説多く、真偽の研究を必要とする。ただし垣の木戸における川上左京との事件は事実だったようである。」


この「柏木玄トウ入道」は柏木源藤と同一人物とみて間違いないと思いますが、井伊直政を狙撃した人物に、家康を狙撃したという伝承もあるのは、なかなか興味深いですね。
「十匁ノ鉄炮」を操る「唐人」であったということは、明か朝鮮の出身で大口径銃の扱いに習熟していたのでしょうか。
2007/05/12(Sat) 19:06 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
柏木源藤
板倉さん、どうも。

ご紹介の家康襲撃の記事、私も興味深いのですが、史実としてはどうかなとも思っています。

じつは拙著「覇戦関ヶ原」(学研、歴史群像新書)のなかでも、家康襲撃説、源藤唐人説、十匁筒説などを取り入れて創作しています。

この続編を書きかけのまま中断しています。編集部からも督促されているのでした。早く手をつけないといけないのですが……
2007/05/13(Sun) 15:31 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
覇戦関ヶ原
こんばんは。

>史実としてはどうかなとも思っています。

この『美濃国雑事記』、文体からして20世紀前半の成立と思われますので、歴史学的には史実とは認定しがたいですね。
ただ、関ヶ原を長年研究してきた郷土史家の藤井氏が「事実だったようである」と見解を述べておられるので、地元伝承として、全くの創作でもなさそうなのですが、その後の研究は進んでないようで残念です。

>編集部からも督促されているのでした。

これは、藪蛇でしたか(笑)
ファンの方々も期待していると思いますので、是非とも完結させてください。
2007/05/13(Sun) 21:01 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
ゆきりんの先祖かと思った
2012/03/12(Mon) 22:56 | URL  | R #oKzxZbq2[ 編集]
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