歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第294回
―鹿籠 安住寺に墓か―

先月30日に連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は先月の南薩取材の成果のひとつです。
枕崎市南溟館の末永館長に島津尚久の墓と伝承される史跡を教えてもらったのをきっかけに、尚久のことを少し書いてみました。

尚久は島津日新斎の三男ですが、若死にしたこともあって、あまり知られていません。
その武勇はなかなかのものだったことは記事に紹介してあります。

鹿籠(かご)、現在の枕崎市ですが、尚久はこの地の領主でした。
他界したのも同所です。
尚久がこの地にいたのは10年にも満たないと思います。
嫡男忠長がその後、鹿籠から串良や宮之城に移転したため、尚久の菩提寺は次第に忘れられていきました。

この墓が尚久の墓なのかどうかは断定できませんが、格式の高い墓なのはたしかです。

尚久の菩提寺とされる桜山安住寺について、記事執筆時点ではその由緒がよくわかりませんでした。
でも、記事にしたあと、2件の情報が寄せられました。
私は近世南九州の地誌『三国名勝図会』の鹿籠の部分を読んで、安住寺の由緒がわからないと書きましたが、よく考えてみると、忠長が移転した宮之城などの項目をチェックするのを失念しておりました。
そちらに安住寺の情報が少しありました。

それによれば、安住寺は瑞雲山という山号で、曹洞宗石屋派。福昌寺(島津家菩提寺)の末寺であり、忠長が父尚久の菩提を弔うために鹿籠に開基、開山は三枝舜有。尚久と殉死した尾辻佐左衛門の墓所だったという。
天正6年(1578)、忠長が串良に移封したとき、安住寺も移転、さらに東郷へ移転、極楽寺と統合し、曇秀寺と改号し、宮之城に移転という。

私の調査不足でした。
情報をいただいたお二人に感謝です。

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【2013/10/03 16:55】 | さつま人国誌
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竹田神社!?
前立腺隊じっちゃマン
初めまして、旧聞にコメしてすみません

竹田神社境内の左寄り、尚久と、殉死した家臣の墓(自然石)とが並びます。本葬墓か、あるいは追善供養塚であるかは知りません。本葬なら、50センチ無いくらいの五輪塔が一般的な時代でしょうけど。

3月に知己の葬儀のため、神社隣の葬祭場を訪れ、思い立って日新公を参拝。その時気がつきました。
私の祖に、宮之城家から養子に来た者があるので、超ウス~い血縁とも言えますから、参拝した次第。

興味深い記事、有難うございます。





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竹田神社!?
初めまして、旧聞にコメしてすみません

竹田神社境内の左寄り、尚久と、殉死した家臣の墓(自然石)とが並びます。本葬墓か、あるいは追善供養塚であるかは知りません。本葬なら、50センチ無いくらいの五輪塔が一般的な時代でしょうけど。

3月に知己の葬儀のため、神社隣の葬祭場を訪れ、思い立って日新公を参拝。その時気がつきました。
私の祖に、宮之城家から養子に来た者があるので、超ウス~い血縁とも言えますから、参拝した次第。

興味深い記事、有難うございます。



2014/07/11(Fri) 01:04 | URL  | 前立腺隊じっちゃマン #a8i1NpJE[ 編集]
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