歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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高崎正風

先日、某研究会で小松帯刀について報告した。
そのとき、幕末薩摩藩の研究者であるMさんから、表題の書籍について教えてもらい、速攻で購入した。う~ん、いい値段。

高崎正風といえば、明治になってから歌人として知られるが、幕末薩摩藩においては、因縁のある人物である。
なぜかといえば、幕末薩摩藩の有名なお家騒動であるお由羅崩れは別名、高崎崩れともいう。それは正風の父高崎温恭が首魁として死刑になったことから、その名がつけられたからである。正風は事件当時まだ幼少だったが、成人するのを待って改めて奄美大島に流刑になっているほどだから、この事件の根深さが知られる。

正風が幕末維新史に名を刻んだとすれば、やはり文久3年(1863)の8・18政変において、会津藩との連携のために奔走したことだろう。
さらに慶応年間になると、正風は藩内の討幕反対派の立場にあり、西郷・大久保とは政敵関係になった。お由羅崩れに怨みを含む西郷・大久保も、その最大の犠牲者だった正風と政敵になるとは皮肉なものである。

さて、正風は通称を左太郎とか左京といった。
同じ名字で、高崎五六(猪太郎ともいう)という人物もいる。二人は同い年であるばかりでなく、ともに討幕反対派という共通の政治的立場にもあった。したがって、この二人は名字が同じで、通称も一字違いのため、よく間違えられる。

今回の報告で、『寺村左膳手記』の慶応3年(1867)9月27日条を引用し、小松が高崎に討幕を断念するよう説諭されて、たまらず妾宅に逃げ込んだという記事を紹介した。
同手記には「高崎輩」と書かれており、私はこの時期に積極的に活動していた高崎五六だとばかり思っていた。ところが、この伝記に収録された正風の日記を読むと、当日、正風が小松邸を訪れている。
もしかすると、左膳手記の高崎とは正風かもしれない。

いずれにせよ、この本が貴重なのは、高崎正風の日記が部分的ながら収録されていることである。
貴重なご教示をいただいたMさんに多謝。

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【2007/04/30 00:12】 | 古書
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板倉丈浩
こんにちは。
この二人、昔は同一人物だと思っていました(笑)
幕末薩摩関係では、黒田清綱と清隆とか、樺山三円(資之)と資紀とか、藤井良節と九成とかもゴチャゴチャ(^^;
(そういえば、尊攘激派として知られた三円や良節はその後どうなったんでしょう?)
さて、小松に反対した「高崎」ですが、高橋秀直氏の『幕末維新の政治と天皇』378ページに、

薩摩の藩情も複雑で倒幕派一色というわけではなく、当時の京都藩邸にさえも反対派は存在していた。
そして土佐側が工作した対象は高崎正風であった(『寺村左膳道成日記』40~42頁)。

とありますので、どうやら正風のようですね。


高崎伊太郎
桐野
板倉さん、どうも。

引用された高橋秀直氏の著作で、高崎を正風とされているようですが、どうでしょうか?

寺村左膳道成日記の当該部分には「高崎伊太郎」と出てきます。
この記述によるかぎり、左太郎、左京の通称だった正風よりも、猪太郎という通称だった五六のほうが該当するのではと思います。
左太郎の間違いだとするより、猪太郎の当て字だと見たほうが妥当ではないでしょうか。

もっとも、西郷が国許の久光側近の蓑田伝兵衛に宛てた書簡(慶応三年十二月二十八日付)によれば、「高崎左京」(正風ですね)が仁和寺宮嘉彰親王を惑わし、「後藤の説を信じ陰策これあり」という理由により国元に送還すると伝えています。
大政奉還から王政復古政変にかけて、正風が後藤象二郎と結んで、西郷・大久保の行動を妨害していたのはたしかでしょうね。

ただ、正風がそうだったからといって、当該期、五六(猪太郎)が在京していなかった、後藤と結んでいなかったわけではないと思います。

いずれにしろ、両高崎の行動を時系列的に、具体的に明らかにする必要はありそうです。


記録の混乱?
板倉丈浩
こんばんは。
佐々木克氏の『幕末政治と薩摩藩』396ページを見ますと、小松を説得していたのは高崎五六(猪太郎)ではないかとしており、研究者でも見解が分かれているようです。
ただ、この慶応三年の時点でも高崎五六が「猪太郎」と呼ばれていたかという問題もありますし、「佐太郎」と「伊太郎」なら字も似てますので(笑)、小松や大久保に対抗できる藩士としては正風の可能性の方が高いんじゃないかなーとは個人的には思っています。
この時期の高崎五六の動向がイマイチわかりませんが、ひょっとしたら2人とも挙兵反対で行動していたために記録も混乱していたのかもしれませんね(^^;



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この記事へのコメント
こんにちは。
この二人、昔は同一人物だと思っていました(笑)
幕末薩摩関係では、黒田清綱と清隆とか、樺山三円(資之)と資紀とか、藤井良節と九成とかもゴチャゴチャ(^^;
(そういえば、尊攘激派として知られた三円や良節はその後どうなったんでしょう?)
さて、小松に反対した「高崎」ですが、高橋秀直氏の『幕末維新の政治と天皇』378ページに、

薩摩の藩情も複雑で倒幕派一色というわけではなく、当時の京都藩邸にさえも反対派は存在していた。
そして土佐側が工作した対象は高崎正風であった(『寺村左膳道成日記』40~42頁)。

とありますので、どうやら正風のようですね。
2007/04/30(Mon) 17:34 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
高崎伊太郎
板倉さん、どうも。

引用された高橋秀直氏の著作で、高崎を正風とされているようですが、どうでしょうか?

寺村左膳道成日記の当該部分には「高崎伊太郎」と出てきます。
この記述によるかぎり、左太郎、左京の通称だった正風よりも、猪太郎という通称だった五六のほうが該当するのではと思います。
左太郎の間違いだとするより、猪太郎の当て字だと見たほうが妥当ではないでしょうか。

もっとも、西郷が国許の久光側近の蓑田伝兵衛に宛てた書簡(慶応三年十二月二十八日付)によれば、「高崎左京」(正風ですね)が仁和寺宮嘉彰親王を惑わし、「後藤の説を信じ陰策これあり」という理由により国元に送還すると伝えています。
大政奉還から王政復古政変にかけて、正風が後藤象二郎と結んで、西郷・大久保の行動を妨害していたのはたしかでしょうね。

ただ、正風がそうだったからといって、当該期、五六(猪太郎)が在京していなかった、後藤と結んでいなかったわけではないと思います。

いずれにしろ、両高崎の行動を時系列的に、具体的に明らかにする必要はありそうです。
2007/05/01(Tue) 18:08 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
記録の混乱?
こんばんは。
佐々木克氏の『幕末政治と薩摩藩』396ページを見ますと、小松を説得していたのは高崎五六(猪太郎)ではないかとしており、研究者でも見解が分かれているようです。
ただ、この慶応三年の時点でも高崎五六が「猪太郎」と呼ばれていたかという問題もありますし、「佐太郎」と「伊太郎」なら字も似てますので(笑)、小松や大久保に対抗できる藩士としては正風の可能性の方が高いんじゃないかなーとは個人的には思っています。
この時期の高崎五六の動向がイマイチわかりませんが、ひょっとしたら2人とも挙兵反対で行動していたために記録も混乱していたのかもしれませんね(^^;

2007/05/02(Wed) 00:42 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
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