歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第301回
―桂忠昉、秀吉に意地示す―

25日に連載が更新になりました。
同誌サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は豊臣秀吉との最後の戦いになった平佐城の戦いを取り上げました。
なお、訂正です。本文末尾と写真キャプションに平佐城跡が現在「平佐小学校」だと書いていますが、正しくは「平佐西小学校」です。

平佐城の戦いは、城将桂忠昉が島津方の意地を示したものですが、一日の戦いで終わっています。
今回、平佐城の攻防の一端を紹介しました。
桂忠昉の巧妙な戦い方や夫人上井氏の活躍などはあまり知られていないかもしれません。
『日向記』にも城方を「城中不屈勇気余有り」と賞賛しています。
もっとも、城中に入った百姓数人が豊臣方に内応したらしく、斬られています。

和睦については、太守義久の休戦命令があったと書きました。これは『本藩人物誌』の桂忠昉譜に従ったものですが、少し疑問もあります。
同譜によれば、「大田講代坊」が「御使」としてきたとあります。主語はないですが、敬語を使っているので、義久の使者の意でしょう。
一方、「平佐城責之事」という史料には、「大田名字之講代坊」が国分から来て平佐城に籠っていたとあり、彼が脇坂安治と交渉して和睦になった旨書かれています。
講代坊なる人物、戦場で和平の任にあたる陣僧のように思われますが、開戦前から平佐城にこもっていたとすると、義久の使者とは考えにくいですし、義久が国分にいたかどうかもよくわかりません。
おそらく義久の命というより、忠昉が講代坊に和平交渉を独自にやらせた可能性ありますね。

あと、豊臣方の水軍衆の動向についてですが、『日向記』に興味深い記述があります。
川内川の河口右岸に京泊という有名な港がありますが、ここに豊臣方の兵粮船数千艘が着岸して諸勢に扶持方(兵粮)を与えたので、京泊の町人たちが俄に活気づいたとあります。
また船橋を架けたのは、九鬼嘉隆・脇坂安治・加藤嘉明が奉行をつとめたとあります。もっとも、船橋が架けられた場所が同川のどのあたりなのかは不明です。これについては、少し私見があります。豊臣方の陣城となった安養寺、猫嶽、猪子岳などと関連があるかもと思っています。
豊臣方の陣取りの様子もほとんどわかりませんが、「平佐城責之事」によれば、開戦前か開戦後かは不明ですが、小西行長が「城ヨリ北之方たひら岡」に陣したとあります。平佐城の北方にある「田平岡」でしょうか? 地元の地理にうとく、よくわかりません。ご存じの方がおいでならご教示のほど。

次回は、秀吉の南限の地はどこかについて書きたいと思っています。

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【2013/11/27 18:39】 | さつま人国誌
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