歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第302回
―川内と鹿児島両説併存―

本日連載が更新になりました。
同誌サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

前回の平佐城攻防戦の続きです。
秀吉が川内に入ったのち、鹿児島まで下ったかどうかという点の検討です。
北政所の老女と思われる「こほ」に宛てた秀吉の消息には、2,3日後に鹿児島に行くと書かれていて、これが一次史料だけに鹿児島説の最大の典拠になっています。
しかし、これはあくまで予定で、何らかの事情で実行に移されなかったのではないかと思われます。
『川角太閤記』の記事はやはり信を措けそうもありません。

秀吉は平佐に数日滞在してから、宮之城、大口方面に向かい、帰還の途についたものと思われます。

平佐城の攻防戦については、史料、とくに一次史料が少ないです。一次史料としては、豊臣方の秀吉消息や『九州御動座記』を除けば、新田神社所蔵の豊臣方4将が連署した禁制の高札の1点だけという寂しさです。一次史料に近いのはイエズス会関係の報告でしょうか。あとは後世の二次的な編纂史料ですね。
なお、この禁制は平佐城の戦いの前日の日付で、「兵船軍勢」の乱暴狼藉を停止させる旨書かれています。やはり、先乗りした豊臣水軍の軍勢が川内川から上陸して新田神社周辺に出没していたことは間違いないようです。

平佐城の攻防で、桂忠昉が意外な奮戦をみせたのは、同城の普請が強化されていたからかもしれません。前年の天正14年(1586)11月、島津義弘の家老伊勢貞成の「掟」によれば、「平佐御城」の普請が行われたことがわかります。また「~御城」とあるのは、忠昉の私城ではなくて、島津氏直轄の城という位置付けだと考えたほうがよさそうです。

なお、地元の川内歴史資料館学芸員の吉本明弘氏の論文が一番詳しいと思いますので、紹介しておきます。

吉本明弘「豊臣秀吉・関白軍の川内侵攻」『千台』40号、薩摩川内郷土史研究会、2012年 

次回は秀吉の撤退ルートについて書く予定です。

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【2013/12/02 15:34】 | さつま人国誌
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2013/12/04(Wed) 12:44 |   |  #[ 編集]
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