歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第303回
―島津歳久、秀吉を襲撃か―

連載が16日に更新になりました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は前回からの流れで、秀吉が薩摩からどのように撤退したのか、そのルートと途中で起きた出来事について書きました。

島津四兄弟の3番目で宮之城(祁答院)領主の歳久が秀吉の開城命令に応じず抗戦し、あまつさえ、秀吉の輿を襲撃したとさえいわれています。

当初、これは尾ひれのついた逸話ではないかと私は思っていましたが、島津義久の書状に、秀吉を襲撃したのは歳久ではないかという記述を見て、実際にあった史実だと思うようになりました。

それでもまだ疑問があります。
紙数の関係で記事には書きませんでしたが、秀吉が馬廻数十騎を歳久のこもる虎居城の物見に出したところ、歳久方に襲撃され、数騎が討たれたといわれています。これは一次史料ではなく編纂記録の記事なので、少し疑ってかかる必要がありますが、もし事実だとすると、歳久の抗戦姿勢は明らかで、秀吉に道案内の使者を送るはずがないし、秀吉もまた虎居城を攻めないはずがないと思います。大軍を擁しているのですから。
このいきさつは何とも合点がいきません。

また同時に、歳久の使者が九尾越えを案内したというのは本当なのかという次の疑問にもつながります。
秀吉が虎居城を警戒して、あえて険路を進んだかもしれません。

また秀吉の空輿に矢を射かけたのが本田四郎左衛門尉であるのはたしかなようですが、『本藩人物誌』の本田の譜には、大口領主の新納忠元の命だとあります。これもどうなのか? 歳久と忠元は互いに連絡を取り合って、この奇襲を実行したのかどうか?
義久は上の書状で、歳久の命ではないかと書いており、どちらかといえば、こちらが信じられる気がします。

また狙撃するなら、弓矢より射程の長い鉄炮のほうがいいような気がしますが、鉄炮は火縄の匂いで相手に感づかれる可能性がありますから避けて、弓矢にしたのかもしれません。

とまあ、この事件は謎が多くて合点がいかないのが正直なところです。
記事内容とはだいぶ異なりますが、補足として書いておきます。

次回は、その下で、秀吉が島津義弘、新納忠元を引見する話が中心です。

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【2013/12/19 23:12】 | さつま人国誌
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