歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
龍馬の草稿発見というNHKのニュース。ここです。

あくまでニュースで公表されているかぎりでのコメントであることをお断りしておきます。
第一印象を率直に述べれば、草稿の内容にそれほどの新味は感じられない。

もう少し全文が見える形で紹介してくれたらいいけど、文中に中根雪江や村田巳三郎の名前も見えるから、福井藩側の中根雪江『丁卯日記』や本多修理『越前藩幕末維新公用日記』にある龍馬来福の記述と矛盾しないように思える。
両記によれば、龍馬(と岡本健三郎)が福井にやってきたのは慶応3年(1867)10月28日。山内容堂の書簡を持参してきたけど、8月25日付で内容がもう古くて緊急の用件でもないと、中根が春嶽に進言している。そしてその日夜、龍馬と応対したのは春嶽の側近、村田巳三郎。両記を読む限り、龍馬が春嶽とじかに会見しているとは思えない。緊急性、重要性がないという春嶽周辺の判断から。
龍馬が三岡八郎と会ったのは2日後の30日。三岡は朝、龍馬の旅館にやってきて7つ過ぎ(午後4時過ぎ)に辞去しているから、7、8時間は熟談した由。

三岡を新政府の財政担当者にと一次史料ではっきり書かれていたのは初めてかもしれないが、このときの会談の内容が三岡の回顧談か何かに書かれていなかったか? また龍馬が大政奉還直前の10月10日、後藤象二郎宛て書簡で江戸の銀座を京師に移すべしと強調して、幕府から新政府移行後の財政を考えていたのは間違いないから、その具体策として、知友の三岡の名前が挙がるのは十分考えられる。三岡との会見も龍馬が希望したものだろう。当時、三岡は春嶽の不興を買い謹慎中だったはず。だから、監視役が付いてきたのを「悪者」云々と言っているのだろう。

余談だが、『越前藩幕末維新公用日記』によれば、龍馬が村田と会談した席上、新政府の人事案のひとつとして、徳川慶喜を関白とし、諸侯のふさわしい人物を両役(議奏・武家伝奏)として慶喜を補佐させるという構想を述べている。暗に土佐藩は春嶽を両役の一人に推挙したいというわけだろう。
もっとも、これは龍馬の本音と思えず、慶喜に同情的な春嶽の意向を察して、福井藩を後藤ら土佐藩の藩論に接近させようという意図だろう。
春嶽は大政奉還には賛成でも、後藤ら藩士が構想する議事院設立には反対だった。要は新政府は慶喜を含めた有力諸侯で構成すべきで、後藤ら藩士の出る幕ではないと考えていた。そうした春嶽をいただく福井藩を何とか土佐藩の支持者にしたかったのが後藤ら在京土佐藩重役たち。龍馬はその意向を受けて福井に行ったはず。その名分が容堂の古い書簡だったと思われ、むしろ本題は新政府の財政よりもそっちじゃなかったか?

なお、龍馬に最初に応対した村田巳三郎とはおそらく文久年間からの知り合い。
余談ながら、私も村田宛ての龍馬の新出書簡を数年前紹介したことがある。龍馬の応対役に村田が出てきたのは自然だと思う。

龍馬草稿の内容から脱線してしまいました。悪しからず。

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【2014/04/07 21:45】 | 幕末維新
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