歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第320回
―知られざる幻の縁組話―

21日、連載が更新されました。
同紙サイトのここか、右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

前回まで3回にわたって黒田官兵衛と島津氏の関係を取り上げましたが、今回は息子の長政と島津義弘の関係についてです。主に2点あります。

ひとつは、関ヶ原合戦前夜、義弘が西軍として大垣城に駐留していたとき、東軍の黒田長政からひそかに書状が送られています。内容は不明ですが、明らかに密書で、長政が義弘に東軍に味方するよう促す趣旨だったと考えて間違いないでしょう。
長政が小早川秀秋の重臣や吉川広家に働きかけ、彼らの離反や中立を実現したことはよく知られています。その調略が義弘にも向けられていたことがわかります。
どうも密書は2通送られた形跡があります。義弘の心が動いたのかどうかは不明です。
このことは関ヶ原合戦の帰趨を考えるうえで、意外と重要な事実ではないかと思います。

次に、両者は関ヶ原合戦の前から縁組を進めていたようです。
ところが、義弘が西軍に属したために、この縁組が暗礁に乗り上げます。義弘は家康から罪を追及されている自分の立場を考えて、この縁組を保留、事実上の中止を長政に提案します。
『黒田家文書』に収められた義弘の長政宛て書状には、長政の「御息様」と義弘の「拙者孫の儀」の縁組であることがわかり、長政の甥で養子の長寿と、義弘の長女御屋地の2人の娘のうち、どちらかが候補だったと思われます。

当時、義弘の子どもは長男久保が病死(子なし)、二男忠恒がいましたが、夫人亀寿との間に子どもはできませんでした。あと、末娘の御下がいますが、彼女は伊集院忠真に嫁ぎ、一女をもうけましたが、生まれたばかりです。しかも、忠真が「反逆者」として殺害されましたから、その娘は当然候補者から除外されるでしょう。そうなると、残るのは長女御下の2人の娘しかいません。

この縁組は結局実現しませんでした。義弘の微妙な立場、松寿の早世によるものです。
それにしても、長政が義弘と縁組を結んでまで親密な関係を築こうとしたのには、何らかのきっかけなり理由があるのではないかと思いますが、それが何なのかよくわかりません。立花宗茂がそうだったように、長政もまた義弘の武勇に畏敬の念をいただいていたのかとも考えられますが、確証はありません。

なお、記事では紹介できなかったが、『黒田家文書』にもう1点、義弘が長政に宛てた書状がある。年次が天正17年(1589)と推定されるもので、おそらく京都の聚楽第の城下で、義弘が長政邸を訪問し、丁重な歓待を受けたことを謝する内容である。島津氏が豊臣政権に服属してからほどない時期に、すでに両者が親密な関係になっていることがわかる。縁組もそうした交流の延長線にあったものか。

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【2014/04/22 16:33】 | さつま人国誌
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Koseikko
はじめまして
「謎解き関ヶ原合戦」と「島津義久」を読ませていただきました。
関ヶ原で島津隊が動かなかったのは「二番備え」であったからだけではなく、長政の手紙も影響していたのでしょうか?

コメント御礼
桐野作人
Koseikkoさん、初めまして。

個人的には、島津勢は二番備えなので出番がなかったと思います。
もし島津勢が中立を守ったとするなら、長政書状が影響を与えたかもしれないのですが、真相は薮の中でしょうね。


koseikko
ありがとうございます。
島津家は別でも小説とは違って義弘さんは“西軍”であってほしいと思うので今日の記事はショックでした。
初めに読んだのは「関ヶ原島津退き口」でした。
失礼致しました。

めずらしい?婚姻政策
ばんない
御無沙汰しております。

この回の黒田家との婚姻計画、そして今週分の寺沢家との婚姻計画を興味深く拝読させていただきました。
寺沢家との縁談が血みどろの末破談になったのは『本藩人物志』で知っていたのですが、黒田家とも縁談が持ち上がっていたというのは初耳でした。もしかして、黒田家側にしか史料が残ってないのでしょうか?私が今まで見た島津家側の史料「薩藩旧記雑録」等ではこの話を見たことがありません。
桐野さんは「黒田家との縁談の理由が謎」とお考えのようですが、私にも不思議です。豊臣秀吉と黒田家との微妙な距離感を見ると余り島津氏にとってメリットがなさそうだし、又黒田家側から見てこの結婚でどんなメリットがあると考えていたのかパッと思い浮かびません。

寺沢家との破談も島津家側史料では「寺沢家がキリシタンだったから」としているようですが、どうもそれだけじゃないように考えています。寺沢広成はキリシタン史料から見る限りではそんな熱心な信者ではなかったようですし…。

対黒田・寺沢外交
桐野作人
ばんないさん、お久しぶりです。

寺沢広高がキリシタンなのかどうかも、じつは確認できていないのですが、少なくとも家中に無視できないキリシタン勢力がいたのでしょうね。

たしかにキリシタンだけが破談の理由ではないのかも知れません。
考えてみたら、官兵衛だってキリシタンですし、弟たちもキリシタン。黒田家との縁組も同様の理由で破談になってもおかしくないはず。

対黒田、対寺沢外交で共通するのは、島津氏の九州域内での安全保障対策かなと思っています。

黒田長政との縁組話はどうもだいぶ前から、もしかしたら秀吉存命中からあったかもしれません。
豊前中津の黒田家は九州における豊臣政権の総目付的な立場です。それと縁組することは島津氏にとって意義あることだったのではないかと思います。

寺沢氏についても、関ヶ原で勝利した徳川政権の九州における有力な旗頭だと思っていたかもしれませんが、黒田家ほどではないし、むしろ、長政との縁組が破談になったので、その次善の策として考えられた可能性高いです。
秀吉の奉行から家康にすり寄った寺沢が家康に信任されたとは思えません。実際、徳川政権下での寺沢の地位は徐々に低下しているように見えます。

ですから、義弘は家康との太いパイプがない寺沢家との縁組は安全保障上、あまり有効ではないという判断が義弘にあったのかもしれないですね。

いずれにしろ、広高にしては面子潰されたので面白くなかったはずです。
主君の屈辱を忖度し、その雪辱を期そうとした家来がいたとしても不思議ではありません。



ばんない
御回答ありがとうございました。
まず最初に「寺沢広」じゃなくて「寺沢広」ですね、訂正しておきます。

島津家から見ると、対豊臣or対徳川=対中央政権対策と言うことですか。なるほど。特に寺沢家との破談に至る推理が興味深いです。縁談をまとめてはみた物の、どうも寺沢家の中央政権(徳川家)における地位が思った程じゃなかったので、切支丹疑惑を持ち上げだしたり難癖を付けて破談させた可能性が高そうですね。

さてさて、黒田家や寺沢家から見て島津家との縁談ってメリットあったんでしょうか。寺沢家の場合、島津家は内情はともかくとして数十万石の大大名ですので家格向上に繋がるとでも考えたかも知れませんが。

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コメント
この記事へのコメント
はじめまして
「謎解き関ヶ原合戦」と「島津義久」を読ませていただきました。
関ヶ原で島津隊が動かなかったのは「二番備え」であったからだけではなく、長政の手紙も影響していたのでしょうか?
2014/04/22(Tue) 21:31 | URL  | Koseikko #-[ 編集]
コメント御礼
Koseikkoさん、初めまして。

個人的には、島津勢は二番備えなので出番がなかったと思います。
もし島津勢が中立を守ったとするなら、長政書状が影響を与えたかもしれないのですが、真相は薮の中でしょうね。
2014/04/22(Tue) 21:50 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
ありがとうございます。
島津家は別でも小説とは違って義弘さんは“西軍”であってほしいと思うので今日の記事はショックでした。
初めに読んだのは「関ヶ原島津退き口」でした。
失礼致しました。
2014/04/22(Tue) 22:52 | URL  | koseikko #-[ 編集]
めずらしい?婚姻政策
御無沙汰しております。

この回の黒田家との婚姻計画、そして今週分の寺沢家との婚姻計画を興味深く拝読させていただきました。
寺沢家との縁談が血みどろの末破談になったのは『本藩人物志』で知っていたのですが、黒田家とも縁談が持ち上がっていたというのは初耳でした。もしかして、黒田家側にしか史料が残ってないのでしょうか?私が今まで見た島津家側の史料「薩藩旧記雑録」等ではこの話を見たことがありません。
桐野さんは「黒田家との縁談の理由が謎」とお考えのようですが、私にも不思議です。豊臣秀吉と黒田家との微妙な距離感を見ると余り島津氏にとってメリットがなさそうだし、又黒田家側から見てこの結婚でどんなメリットがあると考えていたのかパッと思い浮かびません。

寺沢家との破談も島津家側史料では「寺沢家がキリシタンだったから」としているようですが、どうもそれだけじゃないように考えています。寺沢広成はキリシタン史料から見る限りではそんな熱心な信者ではなかったようですし…。
2014/05/08(Thu) 17:26 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
対黒田・寺沢外交
ばんないさん、お久しぶりです。

寺沢広高がキリシタンなのかどうかも、じつは確認できていないのですが、少なくとも家中に無視できないキリシタン勢力がいたのでしょうね。

たしかにキリシタンだけが破談の理由ではないのかも知れません。
考えてみたら、官兵衛だってキリシタンですし、弟たちもキリシタン。黒田家との縁組も同様の理由で破談になってもおかしくないはず。

対黒田、対寺沢外交で共通するのは、島津氏の九州域内での安全保障対策かなと思っています。

黒田長政との縁組話はどうもだいぶ前から、もしかしたら秀吉存命中からあったかもしれません。
豊前中津の黒田家は九州における豊臣政権の総目付的な立場です。それと縁組することは島津氏にとって意義あることだったのではないかと思います。

寺沢氏についても、関ヶ原で勝利した徳川政権の九州における有力な旗頭だと思っていたかもしれませんが、黒田家ほどではないし、むしろ、長政との縁組が破談になったので、その次善の策として考えられた可能性高いです。
秀吉の奉行から家康にすり寄った寺沢が家康に信任されたとは思えません。実際、徳川政権下での寺沢の地位は徐々に低下しているように見えます。

ですから、義弘は家康との太いパイプがない寺沢家との縁組は安全保障上、あまり有効ではないという判断が義弘にあったのかもしれないですね。

いずれにしろ、広高にしては面子潰されたので面白くなかったはずです。
主君の屈辱を忖度し、その雪辱を期そうとした家来がいたとしても不思議ではありません。
2014/05/11(Sun) 09:13 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
御回答ありがとうございました。
まず最初に「寺沢広」じゃなくて「寺沢広」ですね、訂正しておきます。

島津家から見ると、対豊臣or対徳川=対中央政権対策と言うことですか。なるほど。特に寺沢家との破談に至る推理が興味深いです。縁談をまとめてはみた物の、どうも寺沢家の中央政権(徳川家)における地位が思った程じゃなかったので、切支丹疑惑を持ち上げだしたり難癖を付けて破談させた可能性が高そうですね。

さてさて、黒田家や寺沢家から見て島津家との縁談ってメリットあったんでしょうか。寺沢家の場合、島津家は内情はともかくとして数十万石の大大名ですので家格向上に繋がるとでも考えたかも知れませんが。
2014/05/15(Thu) 17:14 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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