歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第322回
―意外、仙洞御所付近か―

4月28日に更新されましたが、うっかり告知を失念してしまいました。
今回はあまり注目されていない豊臣期における島津家京都屋敷はどこにあったのかについて書きました。

結論からいえば、まことに意外な場所、現在の京都御苑内の仙洞御所付近です。
その考証は連載記事を読んでいただくとして、秀吉が聚楽第を造営した頃、正親町上皇が健在だったわけですが、その上皇御所=仙洞御所は現在の地ではなかったと思われます。

聚楽第時代、仙洞御所付近は同第からだいぶ東に離れています。島津家が豊臣政権の大名編成・秩序において外様大名に位置づけられていたからでしょう。
ところが、秀次事件により聚楽第を破却することに決めた秀吉は自分の上洛・参内用に聚楽第に代わる京都屋敷が必要になりました。そして、島津家屋敷を接収して、その地に屋敷を造営します。のちに京都新城と呼ばれる施設です。
秀吉は島津義久に代替地として聚楽第の郭内に屋敷を与えました。義久はとても喜んでいます。外様大名ではなく譜代大名に準じた扱いだと感じたのでしょうか。
でも、ほどなく聚楽第は破却されましたから、その郭内屋敷が健在だったのは数カ月程度かもしれません。
その後、島津忠恒が上京区の木下町に別の屋敷を与えられます。

現在の仙洞御所付近にあった島津家屋敷は秀吉の屋敷になってから、秀頼の上洛・参内などで2,3度使用されたのみです。秀吉死後、大坂城西の丸を退去した北政所がその地を居所にしました。

豊臣期、聚楽第時代の島津家の京都屋敷が意外な場所にあったことは興味深いです。

次回は、島津義弘の家老だった伊勢貞成の非業の最期について。

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【2014/05/04 15:42】 | さつま人国誌
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