歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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島津久治

古書購入。

島津男爵家編輯所著
島津長丸発行
1922年刊
総頁:76頁


島津久治(1841~72)の略歴は過不足なく描かれているが、期待した文書類はほとんどなかったのが残念である。

久治は久光の二男で、一門家の宮之城家を継いだ。宮之城家は、戦国期の太守、島津義久の従弟にあたる島津図書頭忠長(ただたけ)から始まる家である。石高は幕末期で15.763石。堂々たる万石持ちの分家。

ちなみに、久治の通称は図書というが、これは先祖忠長が図書頭だったことにちなむ。久治に限らず、歴代当主はみな図書と名乗っている。
ただし、忠長は「~頭」だが、それ以降は「~頭」が付かない。なぜかといえば、江戸時代、図書頭などの官途や~守などの受領名(国司名)は諸大夫成(五位)以上の官位をもつ者しか名乗れなくなったから。主に大名と上位役職をもつ旗本だけの特権になった。島津家では、本家当主と世子、それに分家の佐土原家の当主と世子しか名乗れなかったのである。

たとえば、久光も重富島津家の当主だった頃は周防とか和泉という国名こそ名乗ったものの、~守の受領名は名乗れなかった。久治も同様で、~頭のない図書だけになったのである。

久治の業績としては、薩英戦争のとき、兄藩主茂久の陣代として総指揮をとったこと。また禁門の変のときも、薩摩藩の指揮をとっている。禁裏警衛の総大将が久治で、天龍寺駐屯の総大将が実弟の島津備後(珍彦、重富島津家当主)だった。
慶応2年(1866)には筆頭家老となって、藩政を取り仕切ったが、政治的には討幕反対派だったために、明治維新後、薩摩藩主流から遠ざけられる。とくに明治2年(1869)の藩政改革のとき、川村純義・伊集院兼寛ら戊辰戦争帰りの城下士グループから門閥保守派の首魁として激しく攻撃され、家老辞職のやむなきにいたった。
それからほどなく、32歳の若さで他界する。発行者の島津長丸は久治嫡男である。
晩年、鹿児島にオランダ人スケップル、フランス人クープスを招いて、英仏語の教育を熱心に行ったという。

口絵に、久治が元治元年(1864)12月、長崎で撮影した写真が掲載されている。椅子に座って斜め右を向いている。紋付きの肩には丸十の家紋が見える。精悍で利かん気の強そうな感じの殿様である。
これは久治が薩英戦争後の薩英の講和修交のため、長崎碇泊の英国軍艦を表敬訪問したときに撮影したものだろう。写真師はやはり上野彦馬だろうか。
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【2007/05/06 18:36】 | 古書
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言葉
小池
薩摩藩の殿様や上級武士たちも薩摩弁だったのでしょうか、織田信長も普段は岐阜あたりの方言をしゃべっていたのでしょうか、つまらない疑問で申し訳ありません

言葉
桐野
小池さん、どうも。

江戸時代は大名が江戸に幕府から藩邸を与えられ、留守居役を置き、世襲する江戸詰め家臣も出てくるようになったので、地方の藩士も江戸に行けば、留守居や江戸詰め家臣の世話で何とかなりました。藩主や藩主世子は江戸と国許に交互に住みましたから、江戸弁はものにしていたと見ていいでしょう。

島津久光については、文久2年(1862)のいわゆる率兵上京に際して、西郷との間で面白い逸話がありますね。
西郷は、久光に面と向かって「久光公は地五郎(田舎者)だから」と言い放ったといわれます。
久光は島津家一門ながら、庶子のため、ずっと国許在住を義務づけられていたので、江戸や京都に行ったことがありませんでした。西郷の「地五郎」発言は、京都や江戸で周旋をやるには、まず言葉が基本条件なのに、久光はそれができないではないかとダメ出ししたわけです。
そこには、島津斉彬の側近として江戸住まいが長く、京都でも近衛家はじめ公家方に周旋活動をした西郷の久光に対する優越感がにじみ出ています。
ですから、久光は江戸弁も京都弁もダメだったのでしょう。西郷は江戸弁をある程度使いこなし、京都弁も理解できたと思われます。

江戸時代は江戸・京都と地方の人的交流が相当盛んになっていますから、言葉も江戸弁を「標準語」にする均質化の傾向はあったかもしれませんね。

さて、信長の時代はどうでしょうかね。日常生活は尾張弁だったかもしれませんが、信長は天皇や摂関家など公家衆とも交流していますから、京都弁というか、公家言葉は相当理解できたのではないでしょうか。


板倉丈浩
こんばんは。
私は言語学は詳しくないのですが(汗)、現在のような方言は江戸時代に成立したもののようで(例えば薩摩弁は機密漏洩を防止するためにワザと難解にしたという伝説があります)、戦国時代までは広く「中世語」が話されていたようですね。

当時来日していた宣教師の記した『日葡辞書』や『日本大文典』などを見ると、確かに「京へ筑紫に坂東さ」のような違いはあったようですが、方言とされている事例の大半は名詞で、我々がイメージするような方言差は無かったようです。

江戸時代については、例えば武家社会に関して言えば、重要な伝達事項は全て文書によって行われており(江戸時代以前は文語と口語は全く違っていた)、通常は礼儀作法を身につけ、あいさつとか天気の話題(笑)が出来れば事足りたのではないかと思います。
ただ、和漢問わず教養があれば、文化人として諸国の人と交流できるので、慣習的に成立した「武家共通語(江戸語)」の習得にはそれなりに有利だったようです。
教養がそれほどない人の場合、方言差を克服するために謡曲の言葉を使う、といったことも行われていたようです。


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コメント
この記事へのコメント
言葉
薩摩藩の殿様や上級武士たちも薩摩弁だったのでしょうか、織田信長も普段は岐阜あたりの方言をしゃべっていたのでしょうか、つまらない疑問で申し訳ありません
2007/05/06(Sun) 20:26 | URL  | 小池 #PoWRB6fw[ 編集]
言葉
小池さん、どうも。

江戸時代は大名が江戸に幕府から藩邸を与えられ、留守居役を置き、世襲する江戸詰め家臣も出てくるようになったので、地方の藩士も江戸に行けば、留守居や江戸詰め家臣の世話で何とかなりました。藩主や藩主世子は江戸と国許に交互に住みましたから、江戸弁はものにしていたと見ていいでしょう。

島津久光については、文久2年(1862)のいわゆる率兵上京に際して、西郷との間で面白い逸話がありますね。
西郷は、久光に面と向かって「久光公は地五郎(田舎者)だから」と言い放ったといわれます。
久光は島津家一門ながら、庶子のため、ずっと国許在住を義務づけられていたので、江戸や京都に行ったことがありませんでした。西郷の「地五郎」発言は、京都や江戸で周旋をやるには、まず言葉が基本条件なのに、久光はそれができないではないかとダメ出ししたわけです。
そこには、島津斉彬の側近として江戸住まいが長く、京都でも近衛家はじめ公家方に周旋活動をした西郷の久光に対する優越感がにじみ出ています。
ですから、久光は江戸弁も京都弁もダメだったのでしょう。西郷は江戸弁をある程度使いこなし、京都弁も理解できたと思われます。

江戸時代は江戸・京都と地方の人的交流が相当盛んになっていますから、言葉も江戸弁を「標準語」にする均質化の傾向はあったかもしれませんね。

さて、信長の時代はどうでしょうかね。日常生活は尾張弁だったかもしれませんが、信長は天皇や摂関家など公家衆とも交流していますから、京都弁というか、公家言葉は相当理解できたのではないでしょうか。
2007/05/06(Sun) 22:00 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんばんは。
私は言語学は詳しくないのですが(汗)、現在のような方言は江戸時代に成立したもののようで(例えば薩摩弁は機密漏洩を防止するためにワザと難解にしたという伝説があります)、戦国時代までは広く「中世語」が話されていたようですね。

当時来日していた宣教師の記した『日葡辞書』や『日本大文典』などを見ると、確かに「京へ筑紫に坂東さ」のような違いはあったようですが、方言とされている事例の大半は名詞で、我々がイメージするような方言差は無かったようです。

江戸時代については、例えば武家社会に関して言えば、重要な伝達事項は全て文書によって行われており(江戸時代以前は文語と口語は全く違っていた)、通常は礼儀作法を身につけ、あいさつとか天気の話題(笑)が出来れば事足りたのではないかと思います。
ただ、和漢問わず教養があれば、文化人として諸国の人と交流できるので、慣習的に成立した「武家共通語(江戸語)」の習得にはそれなりに有利だったようです。
教養がそれほどない人の場合、方言差を克服するために謡曲の言葉を使う、といったことも行われていたようです。
2007/05/07(Mon) 23:55 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
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