歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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「さつま人国誌」第5回(5月5日朝刊掲載分)
相国寺の東、塔之段にも居住
薩軍戦没者慰霊塔

西郷隆盛の居宅があった塔之段の相国寺寄り(塔ノ段口)に、禁門の変と鳥羽伏見の戦いで戦死した薩摩藩士72人の慰霊塔がある

 前回、京都の西郷邸が大久保邸のすぐ近くにあったことを突き止めた。しかし、大山巌が「甲東逸話」(大久保利通の逸話集)のなかで、相国寺の門前に西郷邸があったと回想していることにも気づいた。
 果たして西郷邸は二つあったのだろうか。大山の伝記「元帥公爵大山巌」に次のような回想がある。
「当時上京中の西郷は相国寺に隣せる塔之段といへる処に二階建の寓居を構へ(後略)」
 この回想は「甲東逸話」よりさらに具体的で、西郷は相国寺近くの塔之段に二階建ての家を構えていたというのである。大山はこの西郷邸に起臥して藩邸に出勤していたとも書いてあるから、この記事の信憑性は高い。
 相国寺といえば、室町時代に将軍足利義満が創建した寺院で京都五山のひとつとしてもよく知られている。幕末には二本松の薩摩藩邸の北側と東側に隣接していた。二本松という地名も相国寺の門前町のひとつである。
 大山の回想に出てくる「塔之段」という地名はどこを指すのだろうか。京都の古い地名事典「京都坊目誌」には「大塔ノ址」として「其址相国寺の東。今塔之檀の地名を存し、即ち是也」とある。相国寺には七重大塔跡が建立されたが、応仁の乱で焼失した。その跡に基壇が残ったので塔之檀と呼ばれ、いつしか塔之段という地名になった。
 幕末京都の古地図には、相国寺の東に上塔ノ段丁、下塔ノ段丁という町名が記されており、現在もその場所に塔ノ段通が存在する。
 つまり、西郷は相国寺の東にある塔之段に居宅を構えていたのは間違いないだろう。その時期がいつ頃かといえば、右の大山の回想では、慶応二(一八六六)年の薩長同盟締結の頃にはすでにあったとしている。また土佐藩士樋口真吉の伝記「樋口真吉伝」にも同三年六月三日条に「西郷吉之助ヲ相国寺門前ノ旅宿ニ訪フ」とある。これも塔之段の居宅だろう。
 大久保が寺町石薬師に住んだのは薩長同盟の締結直後だとされるが、西郷も前後して塔之段に屋敷を構えたのではないだろうか。
 そして最初の疑問に戻る。果たして京都の西郷邸は二つあったのか。西郷が塔之段に住んだことは確実だと思われる。では、石薬師中筋の間借りは誤伝なのか。それを証言した地元の古老は幕末に多くの薩摩藩士たちと交流があったことがうかがわれ、証言も非常に具体的だから、誤伝だとも思えない。
 これを矛盾なく理解するには、西郷ははじめ、おそらく元治元(一八六四)年頃と思われるが、石薬師中筋の料亭中熊の二階に間借りしたが、それでは警護や広さなどの面で何かと具合が悪いので、翌慶応元年か二年初頭までに塔之段の居宅に移ったと考えればよいかもしれない。(歴史作家)

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【2007/05/12 07:05】 | さつま人国誌
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