歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞紙に毎週土曜日に連載している拙コラム「さつま人国誌」が同紙サイトに本日から掲載されました。

この欄をクリックすれば、ご覧いただけます。

現在、サイト表紙の更新欄の新着情報にあります。その後はサイト左側のメニュー画面「掲載中の連載・特集」コーナーをクリックすると、拙コラムにたどり着けます。

拙ブログでもこの間数回分掲載しましたが、著作権の関係でタイトルを変えてありました。また同紙コラムには図版など別の情報も入っています。

今後、鹿児島県外の方は拙コラムを同紙サイトでご愛読いただければ有難いです。
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【2007/05/13 17:55】 | さつま人国誌
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たすかります
ばんない
早速ブクマしておきました(^^;)

ところで最新回連載のネタになっている桂久武は、確かに日置島津家の出身なんですが、日置島津家自体は江戸時代前半に歳久の血統は途絶えていますね。久武にすれば血はつながってなくても、末裔という意識の方が強かったんでしょうか。

ところで、明治初年に日置島津家当主と共に歳久の遺骨発掘に携わった田尻種寛氏とはどういう人物なんでしょうか。プライバシー問題などで差し支えなければご教示賜りたく思います。


佐多
ばんないさん
お節介ですが投稿します。
田尻種賢という人がいます。島津久風の四男です。初名は歳香で、田尻家へ養子に入っています。その子ご息ではないかと思います。

日置島津家の血統
桐野
ばんないさん、どうも。

日置島津家はご指摘のとおり、早い時期に島津家久の庶子が入って継いでいますね。
血統からいえば、桂久武と島津歳久がつながっていないのは事実です。

ただ、島津家に限らず、当時は血統より家意識が優先される傾向が強いですね。祖先祭祀も当然、家中心だと思います。
それに血統優先なら、島津家の一門・分家のほとんどの祖は島津家久になってしまいますね。
血統は短期間では強く意識されますが、長くなるとどうでしょうか。徳川将軍家は8代将軍吉宗のときまでは権現様(家康)の血統が重視されましたが、それは家康が超絶した存在だったからで、家久には家康ほどの神通力はないと思います。むしろ、家久の父、義弘の血統だというのが、暗黙裡には意識されたかもしれませんが。

そうだとすれば、桂家の養子に入った久武も桂家の祖を先祖だと思うのではないかということになりますが、そこはそれ。歳久が心岳公として藩中から尊崇されていることが、久武に若い頃から日置島津家の一員でもあるという誇りを培養したのかもしれません。
ともかく、久武が月の命日(在京中は祥月命日がめぐってこなかった)に墓参し、多額の寄進をしていることは、格別の思い入れではなかったかと思います。

田尻務
桐野
ばんないさん、佐多さん

田尻種寛氏ですが、佐多さんのご指摘のように、田尻種賢の子どもではないかと推測されます。
種賢は久風の四男で、桂久武の兄。むしろ田尻務(つかさ)という通称のほうがよく知られています。島津久光側近としても知られます。西郷・大久保と久光の間を取り次ぐ役目を担いました。

とくに、西郷と田尻は親しかったようです。それは西郷家と日置島津家の縁からでしょう。西郷の父は久風の二男、赤山靱負の家に出入りしていました。赤山は田尻務・桂久武の兄にあたります。赤山がお由羅崩れで切腹し、西郷に血染めの肌着を形見として贈ったことは、西郷の政治活動の原点です。

その後も、西郷の政治基盤のひとつが日置島津家との連携でした。
その関係は現在も続いているようで、西郷の庶長子、菊次郎の子孫である隆文氏は日置島津家と姻戚関係にあり、鹿児島県日置市(旧・日置郡日吉町)にある日置島津家の菩提寺、大乗寺跡を守っています。
連載コラムでは分量の関係で書けませんでしたが、ここに平松神社から改葬された歳久の墓があり、終の棲家になっています。


即答、ありがとうございました
ばんない
田尻種寛の父?は養子にいって改名して、実は日置島津家の出身だったんですね。なるほど。ならば、島津歳久の遺骨発掘に携わっているのも納得ですね。
鹿児島藩の田尻氏には古くから薩摩国にいた一流と、いわゆる戦国末期の「島津の北上」の時に降伏してそのまま家臣になった元柳川城主だった流れと2系統に分かれるようですが、養子先はどっちだったのでしょうね(ちなみに両家とも通字は「種」でした)
それにしても幕末の日置島津家は桂久武といい、赤山靱負といい、そうそうたる人物を輩出してますね。

久武が島津歳久を強く思慕した理由を私なりに考えてみたのですが、久武自身が強硬な討幕派だったというのと歳久が強硬な反豊臣秀吉スタンスを取っていたというのが「反中央」という点で一致しており、共通点を感じていたのかなあ、という気がします。

ちなみに養子先の桂家も梅北国兼の乱に加わったりとかしているようですが、島津氏の分家の中ではいまいちパッとしない一族(失礼)のように思います。藩中から尊崇される心岳公に心が傾いたのは当然なのかも知れませんね。
私は「桂」と言えば頭に浮かぶのは「三枝」「米朝」だったりします(汗)

南洲窯は大乗寺の跡にあるんですね。平松神社に歳久の墓は残っている物だとばかり思っていました。URI欄にご紹介させていただいたブログで、西郷家との関係にもちらっと触れてました。意外にも「国賊」とされている歳久の曾孫・久慶の墓もあるんですね。

…ちなみに今神戸の某百貨店で行われている鹿児島の物産市に南洲窯の薩摩焼が出ていますが、手も足も出ませんでした(涙)

島津忠隣の墓も
桐野
ばんないさん、どうも。

うっかりして、コメントを付けたとばかり思っていました。すみません。

私も以前行ったことがあるのですが、大乗寺跡には西郷隆文氏兄弟の南洲窯があります。
窯のそばに墓所があって、歳久の墓や幕末期の家老として知られる島津下総久徴(桂久武の長兄)の墓もあります。
また少し離れたところに、久武の兄、赤山靱負の墓もあります。

そうそう、天正15年(1587)、豊臣秀長軍との根白坂の戦いで壮絶な討死を遂げた歳久養嗣子の忠隣(薩州家島津義虎の二男)の墓もあるのを発見して驚きました。


南洲窯では、「敬天愛人」と書かれた安い小鉢を買ったことがありますが、高いのは手が出ません(笑)。
なお、南洲窯は今年になって、喫茶店も開業したようです。ずっと立ち寄りやすくなったと思います。

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たすかります
早速ブクマしておきました(^^;)

ところで最新回連載のネタになっている桂久武は、確かに日置島津家の出身なんですが、日置島津家自体は江戸時代前半に歳久の血統は途絶えていますね。久武にすれば血はつながってなくても、末裔という意識の方が強かったんでしょうか。

ところで、明治初年に日置島津家当主と共に歳久の遺骨発掘に携わった田尻種寛氏とはどういう人物なんでしょうか。プライバシー問題などで差し支えなければご教示賜りたく思います。
2007/05/13(Sun) 23:26 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
ばんないさん
お節介ですが投稿します。
田尻種賢という人がいます。島津久風の四男です。初名は歳香で、田尻家へ養子に入っています。その子ご息ではないかと思います。
2007/05/14(Mon) 03:00 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
日置島津家の血統
ばんないさん、どうも。

日置島津家はご指摘のとおり、早い時期に島津家久の庶子が入って継いでいますね。
血統からいえば、桂久武と島津歳久がつながっていないのは事実です。

ただ、島津家に限らず、当時は血統より家意識が優先される傾向が強いですね。祖先祭祀も当然、家中心だと思います。
それに血統優先なら、島津家の一門・分家のほとんどの祖は島津家久になってしまいますね。
血統は短期間では強く意識されますが、長くなるとどうでしょうか。徳川将軍家は8代将軍吉宗のときまでは権現様(家康)の血統が重視されましたが、それは家康が超絶した存在だったからで、家久には家康ほどの神通力はないと思います。むしろ、家久の父、義弘の血統だというのが、暗黙裡には意識されたかもしれませんが。

そうだとすれば、桂家の養子に入った久武も桂家の祖を先祖だと思うのではないかということになりますが、そこはそれ。歳久が心岳公として藩中から尊崇されていることが、久武に若い頃から日置島津家の一員でもあるという誇りを培養したのかもしれません。
ともかく、久武が月の命日(在京中は祥月命日がめぐってこなかった)に墓参し、多額の寄進をしていることは、格別の思い入れではなかったかと思います。
2007/05/14(Mon) 07:30 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
田尻務
ばんないさん、佐多さん

田尻種寛氏ですが、佐多さんのご指摘のように、田尻種賢の子どもではないかと推測されます。
種賢は久風の四男で、桂久武の兄。むしろ田尻務(つかさ)という通称のほうがよく知られています。島津久光側近としても知られます。西郷・大久保と久光の間を取り次ぐ役目を担いました。

とくに、西郷と田尻は親しかったようです。それは西郷家と日置島津家の縁からでしょう。西郷の父は久風の二男、赤山靱負の家に出入りしていました。赤山は田尻務・桂久武の兄にあたります。赤山がお由羅崩れで切腹し、西郷に血染めの肌着を形見として贈ったことは、西郷の政治活動の原点です。

その後も、西郷の政治基盤のひとつが日置島津家との連携でした。
その関係は現在も続いているようで、西郷の庶長子、菊次郎の子孫である隆文氏は日置島津家と姻戚関係にあり、鹿児島県日置市(旧・日置郡日吉町)にある日置島津家の菩提寺、大乗寺跡を守っています。
連載コラムでは分量の関係で書けませんでしたが、ここに平松神社から改葬された歳久の墓があり、終の棲家になっています。
2007/05/14(Mon) 07:48 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
即答、ありがとうございました
田尻種寛の父?は養子にいって改名して、実は日置島津家の出身だったんですね。なるほど。ならば、島津歳久の遺骨発掘に携わっているのも納得ですね。
鹿児島藩の田尻氏には古くから薩摩国にいた一流と、いわゆる戦国末期の「島津の北上」の時に降伏してそのまま家臣になった元柳川城主だった流れと2系統に分かれるようですが、養子先はどっちだったのでしょうね(ちなみに両家とも通字は「種」でした)
それにしても幕末の日置島津家は桂久武といい、赤山靱負といい、そうそうたる人物を輩出してますね。

久武が島津歳久を強く思慕した理由を私なりに考えてみたのですが、久武自身が強硬な討幕派だったというのと歳久が強硬な反豊臣秀吉スタンスを取っていたというのが「反中央」という点で一致しており、共通点を感じていたのかなあ、という気がします。

ちなみに養子先の桂家も梅北国兼の乱に加わったりとかしているようですが、島津氏の分家の中ではいまいちパッとしない一族(失礼)のように思います。藩中から尊崇される心岳公に心が傾いたのは当然なのかも知れませんね。
私は「桂」と言えば頭に浮かぶのは「三枝」「米朝」だったりします(汗)

南洲窯は大乗寺の跡にあるんですね。平松神社に歳久の墓は残っている物だとばかり思っていました。URI欄にご紹介させていただいたブログで、西郷家との関係にもちらっと触れてました。意外にも「国賊」とされている歳久の曾孫・久慶の墓もあるんですね。

…ちなみに今神戸の某百貨店で行われている鹿児島の物産市に南洲窯の薩摩焼が出ていますが、手も足も出ませんでした(涙)
2007/05/14(Mon) 22:22 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
島津忠隣の墓も
ばんないさん、どうも。

うっかりして、コメントを付けたとばかり思っていました。すみません。

私も以前行ったことがあるのですが、大乗寺跡には西郷隆文氏兄弟の南洲窯があります。
窯のそばに墓所があって、歳久の墓や幕末期の家老として知られる島津下総久徴(桂久武の長兄)の墓もあります。
また少し離れたところに、久武の兄、赤山靱負の墓もあります。

そうそう、天正15年(1587)、豊臣秀長軍との根白坂の戦いで壮絶な討死を遂げた歳久養嗣子の忠隣(薩州家島津義虎の二男)の墓もあるのを発見して驚きました。


南洲窯では、「敬天愛人」と書かれた安い小鉢を買ったことがありますが、高いのは手が出ません(笑)。
なお、南洲窯は今年になって、喫茶店も開業したようです。ずっと立ち寄りやすくなったと思います。
2007/05/19(Sat) 13:01 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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2009/01/06(Tue) 23:00 |   |  #[ 編集]
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