歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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古文書塾「てらこや」の講座「幕末の日記を読む3」。

昨夜、その3回目の講座だった。ゴールデンウィークを挟んだので、隔週のところが3週間空いてしまって、久しぶりという感じ。
じつは、決算と某雑誌の原稿締め切り3本を抱えていて、この講座の準備に1日費やすのは大変だった。

でも、いよいよ大政奉還に入るから手を抜くわけにはいかない。
ところが、日記の主、寺村左膳はこの大事に国許に帰ってしまい、日記はのんびりしたもの。
だから、別の史料を援用せざるをえない。今回はとくに徳川慶喜の回顧談である『昔夢会筆記』を使った。明治維新から30年以上経ってからの回想だし、自分に都合よく脚色してある部分もあるから割り引いて読みましょうと断ってから読む。

面白かったのは、慶喜の回顧談に付録的に付いていた松平定敬(もと桑名藩主)の回顧談。
二条城で慶喜が大政奉還する旨を在京諸藩の代表に通知したとき、薩摩・土佐・芸州・備前・宇和島の五藩の代表が居残って、慶喜と膝詰め談判となった。
慶喜が「近う近う」と声をかけたので、彼らが膝を畳に付けながらにじり寄ったので、その距離がわずか三尺になったという記述など、とてもリアルである。徳川260年の歴史のなかで、将軍と陪臣がこんな近い距離で話し合うのは初めてだったのではないか。

なかでも、重要人物は薩摩の小松帯刀と、土佐の後藤象二郎である。定敬の回顧談は、そば近くで見ていただけに、両者の好対照の様子が活写されている。
小松は摂関家・宮家以下の朝廷の公家たち、慶喜や老中以下の幕府諸役人、また諸藩主や重臣たちとの間で、文久年間から長く周旋活動をしてきた経験がある。そのため、将軍慶喜の前とはいえ、万事そつがない。

ところが、後藤は中央政界に打って出たのが、大政奉還のあった慶応3年(1867)後半からだったから、経験が少ない。

その差がもろに出たようで、そばで見ていた定敬は後藤の緊張した様子を「成る程、額・首筋の流汗は甚だしかりき」と述べ、あとで同僚たちと「後藤の汗咄し(ばなし)」を噂し合ったという。
よほどすごい汗だったのだろうな。自分も汗っかきなので、後藤にはむしろ親近感を覚える(笑)。

後藤は二条城に登城する直前、坂本龍馬から、もし慶喜が大政奉還をごまかすようなら刺し違える覚悟で行ってこいとネジを巻かれていたから無理もあるまい。後藤の気負いに反して、慶喜はあっさりと大政奉還を宣言してしまったから、後藤もさぞや拍子抜けしたのではないだろうか。

講座の趣旨からはずれるが、のちに、後藤などが王政復古政変の直前、小松が足痛のため再上京して来なかったことを非常に残念がり、小松が西郷・大久保らに敗れて失脚したのではないかとまで憶測している史料がいくつかある。

なぜ後藤らがここまで小松に期待をかけていたのか、単に公議政体という共通項のためかと思っていたが、どうやらそうではなさそうだとわかった。
将軍慶喜の前でも堂々と周旋活動ができる小松のそつのなさや手際のよさは、後藤たちにない才能だったのではあるまいかという思いを強くした。

後藤たちは王政復古の舞台での対立する諸勢力間で、小松の周旋・調停能力を買っていたのではないだろうか。

今回、大政奉還を中心に話を進めた。じつは、大政奉還と共に、討幕の密勅降下も同時進行している。時間の関係と、両者の錯綜で受講者のみなさんが混乱しないように話題を分けた。

次回は、討幕の密勅とともに、龍馬暗殺の話題にも入る。これまであまり使っていない史料も使おうかなと思っている。
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【2007/05/16 20:49】 | てらこや
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